藤原清衡(清原清衡) (ふじわらのきよひら)
【概説】
平安時代後期の武将であり、東北地方に約100年にわたる栄華を築いた奥州藤原氏の初代当主。後三年合戦において源義家の介入を得て一族の抗争を制し、陸奥・出羽両国の覇権を確立した。
本拠地を平泉に構え、奥州の豊かな財力を背景に朝廷との良好な関係を保ちながら、中尊寺の建立など仏法に基づく平和な理想郷(仏国土)の建設に尽力した。
数奇な前半生と前九年合戦
藤原清衡の前半生は、陸奥国を揺るがした大乱に翻弄された過酷なものであった。彼の父は亘理地方を拠点とした豪族・藤原経清、母は奥州の最大勢力であった安倍頼時の娘である。1051年から始まった前九年合戦において、父の経清は源頼義が率いる朝廷軍から離反して義父の安倍氏に味方したが、最終的に敗れて斬首された。この時、清衡はわずか7歳であった。
戦後、清衡の母は助命される代わりに、安倍氏を討つために源頼義に協力した出羽国の豪族・清原武貞の妻とされた。清衡も母に連れられて清原氏の養子となり、「清原清衡」として清原氏の庇護下で成長することになる。実父を殺した敵側の氏族の中で身を縮めて生きるという、屈辱的で複雑な立場を強いられたのである。
後三年合戦と奥州の覇権確立
清原武貞の死後、清原氏内部では一族の主導権を巡る激しい内訌が勃発した。清衡には、武貞の先妻の子である異父兄の真衡と、清衡の母が武貞と再婚した後に生まれた異母弟(文献によっては兄ともされる)の家衡がおり、三者の関係は極めて険悪であった。1083年、陸奥守として下向してきた源義家がこの争いに介入し、後三年合戦が引き起こされた。
当初、清衡は家衡と共に真衡と対立していたが、真衡の急死により遺領の分割が行われると、今度は家衡と激しく対立した。家衡は清衡の館を急襲し、清衡の妻子眷族を皆殺しにするという凶行に及ぶ。辛くも逃げ延びた清衡は源義家に助けを求め、義家の軍事力と自身の知略を合わせて家衡を金沢柵(現在の秋田県横手市)に追い詰め、ついにこれを滅ぼした。
この勝利によって清原氏の正統な後継者となった清衡は、実父の姓である「藤原」に復し、陸奥・出羽両国を支配する奥州の覇者として君臨することとなった。
平泉の建設と対中央外交
奥州の支配権を確立した清衡は、11世紀末頃に本拠地を江刺の豊田館から平泉(現在の岩手県西磐井郡平泉町)へと移した。平泉は北上川などの水運の結節点であり、東北地方全体を統治・支配する上で極めて重要な交通の要衝であった。
清衡は、中央政府(朝廷や院、摂関家)からの政治的干渉を防ぐため、非常に巧みな外交戦略をとった。奥州特産の砂金や名馬、アザラシの皮、ワシの羽などを莫大な「貢納」として京都の権門に贈り続けたのである。とりわけ当時の実力者であった白河法皇や関白・藤原忠実らと緊密な関係を築くことで、朝廷から陸奥押領使などの軍事警察権を実質的に認められ、奥州において半ば独立国のような独自の支配体制を築き上げた。
「仏国土」の建設と中尊寺建立の意義
清衡の治世における最大の文化的事業が、平泉における中尊寺の建立である。1124年に完成した豪華絢爛な金色堂は、奥州藤原氏の莫大な財力と高度な工芸技術の結晶として今日に伝わっている。
清衡が仏教事業に心血を注いだ背景には、前九年・後三年合戦という凄惨な戦乱を生き抜き、実父や妻子を含む数多くの命が失われたことに対する深い鎮魂の思いがあった。清衡が発案したとされる『中尊寺建立供養願文』には、敵味方の区別なく、さらには鳥獣魚鼈(動物たち)に至るまで、戦乱で命を落としたすべての御霊を極楽浄土へ導きたいという悲願が記されている。
当時、辺境と見なされていた奥州を、殺戮のない平和な理想郷である「仏国土」に作り変えるという清衡の崇高な理念は、その後の基衡、秀衡へと受け継がれ、東北地方に約100年間の平和と未曾有の繁栄をもたらす礎となったのである。