菩薩戒 (ぼさつかい)
822年
【概説】
平安時代初期に天台宗の開祖・最澄が提唱した、大乗仏教の精神に基づく独自の戒律。従来の南都仏教が重視した自己の解脱を目的とする「具足戒」に対し、他者の救済(利他行)を重んじる実践的な内容を特徴とする。最澄の死後、この菩薩戒のみを授ける「大乗戒壇」の設立が公認され、日本天台宗が南都仏教から独立する契機となった。
「具足戒」から「大乗菩薩戒」へ:最澄の思想的転換
奈良時代に唐僧・鑑真が伝えた受戒制度では、国家公認の僧侶(比丘)となるために、東大寺などの戒壇で具足戒(ぐそくかい)と呼ばれる250余りの極めて厳格な規律を遵守することが求められた。しかし、最澄はこの具足戒を、個人の修行を重んじる「小乗的」なものとして批判した。最澄は、『梵網経(ぼんもうきょう)』に説かれる菩薩戒(十重四十八軽戒)こそが、自らの悟りだけでなく他者の救済(利他)を同時に目指す大乗仏教の真髄であるとし、これのみを授ける独自の受戒制度の確立を目指した。この菩薩戒は、出家者だけでなく広く一般の信者にも適用できる、開かれた性質を持っていた点に大きな意義がある。
大乗戒壇の独立と日本仏教に与えた影響
最澄による菩薩戒を用いた独自の僧侶養成機関(大乗戒壇)の設立計画は、既得権益の侵害を恐れる東大寺などの南都(奈良)仏教勢力から猛烈な反対を受けた。しかし、最澄が弘仁13年(822年)に没したわずか7日後、嵯峨天皇によって大乗戒壇の設立が勅許された。これにより、比叡山延暦寺は奈良の旧仏教から完全に独立し、独自の僧侶を育成する特権を得ることとなった。比叡山で授けられた菩薩戒の「すべての人が成仏できる」という大乗的かつ寛容な精神は、のちに比叡山から輩出される法然、親鸞、道元、日蓮といった鎌倉新仏教の開祖たちに引き継がれ、日本独自の仏教受容を決定づける強固な土壌となった。