茶屋四郎次郎 (ちゃやしろうじろう)
【概説】
戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した、京都の特権的な政商。織田信長や徳川家康に仕えて御用商人となり、特に家康の天下統一を資金や情報の面から支えた。のちに江戸幕府の呉服御用達として地位を確立したほか、初期の朱印船貿易でも巨万の富を築いた、近世京都を代表する豪商である。
徳川家康との深い絆と「伊賀越え」での大功
茶屋家はもともと信濃国の守護小笠原氏の末裔とされる武家であったが、室町時代中期に京都にのぼり、高級織物などを扱う呉服商へと転身した。「茶屋」の屋号は、将軍足利義輝が立ち寄った際に茶を献じたことに由来するといわれる。
初代四郎次郎となった茶屋清延(きよのぶ)は、徳川家康が三河国で頭角を現した頃から臣従し、京都における家康の御用達、さらには情報調停者としての役割を担うようになった。その関係の深さを示す決定的な事件が、1582年の本能寺の変である。この時、近畿地方を旅行中であった家康に対し、清延はいち早く織田信長自刃の急報を伝えた。さらに、家康が伊賀国の険しい山道を通って三河へと逃帰した「神君伊賀越え」において、清延は資金を提供し、路銀や道中の道案内を手配して家康の絶体絶命の危機を救った。この功績により、茶屋家は家康から生涯にわたる絶大な信頼を獲得することとなった。
幕府呉服御用達の確立と「朱印船貿易」での活躍
関ヶ原の戦いや大坂の陣を経て徳川家康が実権を握ると、茶屋家は幕府の強力な保護のもとで急成長を遂げる。2代清忠(きよただ)は、京都の町衆を統制する「京都町長老」に任じられ、市政にも影響力を持った。
さらに3代茶屋清次(きよつぐ)の時代には、幕府から長崎港の貿易管理や生糸の価格決定権を握る糸割符(いとわっぷ)制度の特権を与えられた。また、海外との渡航が許可された朱印船貿易にも参入し、ベトナム(交趾)などへ自社船を派遣。中国産の生糸や絹織物を輸入し、莫大な利益(巨利)をあげた。これにより、同じく京都の豪商であった角倉(すみのくら)氏や後藤氏、荒木氏らとともに「寛永の豪商」として名を馳せることとなった。
家康の最期と鎖国による変容
茶屋家は徳川家康の私的な相談役でもあり続けた。1616年、隠居していた家康が駿府城で倒れる直前、茶屋清次が京都の流行として紹介した「鯛の天ぷら」を家康が食したという逸話は有名である。これが家康の直接の死因(一説には胃がんとも言われる)の引き金になったという説もあるほど、両者の心理的距離は近かった。
その後、江戸幕府が3代将軍徳川家光のもとで鎖国(対外海禁政策)へと舵を切ると、朱印船貿易は全面的に禁止され、茶屋家は最大の収入源であった海外貿易から撤退を余儀なくされた。しかし、代々の四郎次郎は江戸や京都における高級呉服御用達としての利権を守り抜き、武家社会に深く根を下ろした特権商人(政商)として、江戸時代を通じてその家名を維持したのである。