紙・墨 (かみ・すみ)
【概説】
記録や文書の作成、情報の伝達に欠かせない媒体および筆記用具。推古朝に高句麗の僧・曇徴によって製法が日本にもたらされたとされ、古代日本の官僚制の維持や仏教文化の興隆を支える基盤となった。
曇徴の来朝と製法技術の受容
『日本書紀』の推古天皇18年(610年)3月条には、高句麗の僧である曇徴(どんちょう)が来朝し、紙や墨のほか、彩色(絵の具)や、水力で稼働する臼である「碾磑(てんがい)」の製法を伝えたと記されている。これ以前の5世紀の段階で、すでに倭の五王の外交文書が存在したことから、紙や墨そのものは大陸や朝鮮半島から日本に流入していたと考えられている。しかし、曇徴の来朝は、国内でこれらを自給自足するための「製造技術」が本格的に移植された画期的な出来事であった。紙と墨は、当時の日本にとって最先端の高度な化学・機械テクノロジーとして受容されたのである。
律令国家の構築と文書行政の確立
飛鳥時代後半から奈良時代にかけて、日本は中国(隋・唐)の統治制度を模倣した律令国家の形成を急いだ。律令制の本質は、法に基づく中央集権的な文書行政である。戸籍や計帳の作成、税(租・庸・調)の徴収記録、官人への命令伝達など、国家統治のあらゆる局面において文書が作成された。木簡も多用されたものの、紙と墨は木簡に比べて大量の情報を軽量かつコンパクトに保管・輸送できるため、地方と中央を結ぶ公文書の主役となった。これにより、紙と墨は古代国家の官僚制を稼働させるための極めて重要な「戦略物質」としての地位を確立した。
仏教興隆と「写経」による国産化の進展
飛鳥時代から奈良時代に全盛を迎えた仏教信仰も、紙・墨の需要を急速に押し上げる要因となった。特に国家の安寧を祈念して経典を書き写す写経(しゃきょう)は、聖武天皇期を中心に朝廷が専門の官署(写経司)を設けて組織的に行う巨大国家事業であった。この膨大な需要に応えるため、朝廷は図書寮(ずしょりょう)を設けて官営の製紙工房を運営したほか、地方の諸国衙でも「国紙」を製造させた。当初は麻を原料とした「麻紙」が主流であったが、やがて日本独自の工夫として楮(こうぞ)や雁皮(がんぴ)、のちには三椏(みつまた)を用いた独自の製法が定着し、これがのちの和紙へと発展を遂げることとなる。墨についても、松の脂を燃やした煤から作る「松煙墨(しょうえんぼく)」の国産化が進められ、各地で独自の生産体制が整備されていった。