江南軍 (こうなんぐん)
【概説】
1281(弘安4)年の弘安の役(第2回元寇)において、元(モンゴル帝国)が日本へ派遣した二大遠征軍の一つ。旧南宋の降兵(新附軍)を主力とし、中国江南地方の慶元(現在の浙江省寧波)から出航した総勢約10万人に及ぶ大部隊である。
モンゴルの南宋征服と「新附軍」の国外放出
1274(文永11)年の文永の役の後、元のクビライ・カハンは1279年に崖山の戦いで南宋を完全に滅ぼし、中国全土の統一を達成した。この過程で、元に降伏した大量の旧南宋の将兵は「新附軍(しんぷぐん)」と呼ばれた。彼らは元朝にとって降伏したばかりの忠誠心の低い存在であり、国内に滞留させることは反乱の火種を抱えることを意味していた。
そこでクビライは、これら膨大な新附軍の兵力を国外遠征に動員することで、国内の安全保障を図ると同時に、未だ服属しない日本への再侵攻に利用することを画策した。こうして編成されたのが、旧南宋の将領であった范文虎(はんぶんこ)らを指揮官とし、兵力約10万、軍船約3500隻からなる「江南軍」である。これは、高麗から出航する東路軍(約4万)をはるかに凌ぐ、東アジア史上でも最大規模の渡海遠征軍であった。
二路侵攻作戦の破綻と日本側の防戦
元の弘安の役における作戦は、金方慶らが率いる東路軍と、范文虎らの江南軍が壱岐島で合流し、一挙に博多湾へ攻め入るという「二路並進」のものであった。しかし、江南軍は急造の軍船準備や疫病の発生、さらには最高司令官のアタハイの病気交代(後に復帰)などの要因により、出発が大幅に遅れることとなった。
合流予定の遅れにしびれを切らした東路軍は、単独で博多湾へ侵攻したが、日本側が前回の教訓から博多湾沿岸に築いていた石築地(元寇防塁)に阻まれ、上陸を阻止された。志賀島の戦いや壱岐の戦いで追撃を受けた東路軍は後退を余儀なくされ、ようやく7月下旬になって、平戸島および鷹島付近で江南軍と合流することに成功した。しかし、長旅による疲弊と指揮系統の二重化による混乱から、元軍は博多湾への総攻撃へ踏み切ることができずに時間を浪費した。
「神風」による壊滅と助命された南宋兵
合流からまもない閏7月1日の夜、九州北部一帯を猛烈な台風(いわゆる神風)が襲った。伊万里湾(鷹島・平戸島周辺)に停泊していた江南軍の軍船は、その多くが中国の河川用船を急遽改造した急造船であったため、激しい風雨と波浪に耐えきれず、互いに衝突して沈没・大破した。これにより指揮官の范文虎らは残存する船で逃亡し、戦場に取り残された膨大な将兵が軍としての組織力を失った。
鷹島などに逃げ延びた十数万の元軍将兵に対し、日本の御家人らは徹底的な掃討戦を展開した。この際、捕虜となった元軍のうち、モンゴル人や高麗兵(主に東路軍)は容赦なく斬首された。しかし、旧南宋兵を主体とする江南軍の兵士たちは、もともと日本と交易のあった友好国(南宋)の民、あるいはモンゴルに強制動員された被害者として認識され、「唐人」として助命された。彼らは博多などで奴隷や職人として日本国内に留め置かれ、一部は後の日本社会に技術や文化をもたらす契機ともなった。