武家伝奏 (ぶけてんそう)
【概説】
朝廷と武家幕府との間の交渉や意思疎通を仲介した公家の役職。朝廷の意志を幕府に執奏(上奏)し、逆に幕府の命令や意向を朝廷に伝達する窓口として機能した。
武家伝奏の起源と変遷
「伝奏」とは、もともと朝廷において特定の事項を天皇や院に取次・上奏する奉行人のことであった。鎌倉時代末期、持明院統と大覚寺統の両統迭立期に、鎌倉幕府との交渉窓口として設置されたのが「武家伝奏」の端緒とされる。室町時代に入ると、室町幕府が朝廷の政務を事実上掌握する中で公式な職制として定着した。戦国時代を経て、織豊政権期から江戸時代初期にかけてその仕組みが受け継がれ、徳川幕府のもとで朝廷統制のための強固な官僚機構の一環として再編されるに至った。
江戸幕府による制度化と京都所司代との関係
江戸幕府を開いた徳川家康は、1615(元和元)年に「禁中並公家諸法度」を制定し、朝廷をその統制下に置いた。この幕藩体制において、武家伝奏は朝廷の最高実務機関として議奏(ぎそう)とともに極めて重視された。武家伝奏は定員2名で、堂上公家(名家など)の中から選任された。人事権は実質的に江戸幕府(将軍)が握っており、その役料(俸禄)も幕府から支給されるなど、事実上、幕府に奉仕する公家官僚としての性格を強く持っていた。
彼らの主な任務は、京都における幕府の最高出先機関である京都所司代と密に連絡を取り合い、朝廷内の情報や朝儀の執行状況を江戸の老中へと伝達することであった。これにより、幕府は江戸にいながらにして京都の動向を完全に掌握し、朝廷の自立的な政治行動を封じ込めることに成功した。
幕末における政治的変質と終焉
江戸時代を通じて幕朝間のパイプ役として幕府の朝廷統制に貢献した武家伝奏であったが、19世紀半ばの幕末期に至るとその機能は大きく変質した。黒船来航をはじめとする対外危機の到来により、幕府の権威が低下し朝廷の政治的発言権が向上すると、武家伝奏は「幕府の意思を朝廷に押し付ける窓口」から、「朝廷(天皇)の攘夷意志を幕府に突きつける窓口」へと変貌を遂げた。この時期、三条実美などの尊王攘夷派の急進的公家が武家伝奏を介して国政に介入するようになり、政局に大きな影響を与えた。しかし、1867(慶応3)年の王政復古の大号令によって幕府が瓦解すると、武家を相手とする武家伝奏という役職はその歴史的使命を終え、廃止された。