東海道

重要度
★★★

東海道

7世紀後半〜

【概説】
律令制において定められた広域行政区分である「五畿七道」の一つ。畿内から太平洋沿いを通って本州東部(現在の関東地方)へと伸びる官道、およびその沿線に位置する諸国を指す。日本の東西を結ぶ最重要の交通・物流の大動脈として、古代から現代に至るまで日本列島の歴史的発展に多大な影響を与え続けている。

律令国家における「東海道」の成立

「東海道」という呼称は、飛鳥時代から奈良時代にかけて律令国家が形成される過程で、中国の制度に倣って導入された広域地方行政区分「五畿七道」の一つとして成立した。この概念は、特定の地域(行政区画)を指すとともに、都(畿内)からその地域へと伸びる幹線道路(駅路)を指す名称でもあった。

行政区分としての東海道は、伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・上総・下総・常陸などの諸国から構成された。なお、武蔵国は当初東山道に属していたが、宝亀2年(771年)に東海道へと移管されている。官道としての東海道は、畿内からこれらの国々の国府を連絡し、各駅には駅馬が置かれる駅伝制が整備された。当初、律令制下で最も重要視された「大路」は大宰府へと繋がる山陽道であり、東海道は「中路」と位置づけられていた。しかし、蝦夷が住む東北地方への前線基地としての東国支配の重要性から、軍事的・政治的な機能は極めて高く、防人や租庸調の運搬にも頻繁に利用された。

中世における政治的地位の向上と変容

平安時代後期から中世にかけて、東海道の歴史的意義は劇的な変化を遂げる。最大の契機となったのは、12世紀末の鎌倉幕府の成立である。政治・軍事の中心が東国の鎌倉へ移ったことにより、伝統的な権威の中心である京都(朝廷)と新興の鎌倉(幕府)を結ぶ東海道は、日本列島において最も重要な政治的・経済的な大動脈へと昇格した。

この時期には、武士や商人、僧侶などの往来が激増し、沿線には宿(宿場)が自然発生的に発達した。また、鎌倉時代を通じて宿や渡船の整備が進む一方で、室町時代から戦国時代にかけては、各地の戦国大名が関所を設けて関銭を徴収したり、自国内の伝馬制を整備したりと、軍事および領国経済の観点から東海道の支配と管理が強化されていった。

近世・江戸幕府による「五街道」としての整備

東海道が現在我々の知るような姿として完成を見たのは、江戸時代である。慶長6年(1601年)、徳川家康は全国支配の基盤を固めるため、江戸の日本橋を起点とする五街道(東海道・中山道・甲州道中・奥州道中・日光道中)の整備に着手した。その筆頭として最も重視されたのが東海道である。

江戸幕府は、江戸と京都を結ぶこの街道に東海道五十三次と呼ばれる53の宿場を設け、本陣や問屋場を整備して伝馬の制度を確立させた。また、箱根や新居(今切)などの重要な関所を設置し、「入鉄砲に出女」を厳しく監視して治安維持と体制安定を図った。泰平の世が続くと、大名の参勤交代だけでなく、伊勢参りや物見遊山を目的とした庶民の旅行も盛んになり、東海道は人・物・情報が絶えず行き交う文化の大動脈となった。十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』や、歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』は、当時の東海道の活気と豊かな情景を今に伝えている。

近現代への継承と不動の大動脈

明治維新後、近代国家への歩みを進める日本においても、東海道の重要性は揺るがなかった。明治政府による近代的な道路制度の導入に伴い国道として再編され、やがてそのルートに沿うように官設鉄道(のちの国鉄東海道本線)が敷設された。戦後日本の高度経済成長期においても、東海道新幹線や東名高速道路など、日本の基幹インフラはこの「東海道」の軸線に沿って建設されている。飛鳥時代に定められた古代の交通・行政の枠組みは、千三百年以上の時を超えて、現在の太平洋ベルトという日本最大のメガロポリスの骨格として生き続けているのである。

新版 ちゃんと歩ける東海道五十三次 西 見付宿~京三条大橋 +佐屋街道

東海道の西半分と佐屋街道を網羅し、歴史の面影を辿る旅を情緒豊かにサポートする充実の散策ガイド。

日本古代史の読み方 456-785 (中経出版)

飛鳥から奈良時代の史料を丹念に紐解き、断片的な記録から古代社会の実像を論理的に浮き彫りにした力作。

日本史一問一答(ランダム)

Q. 秦氏の祖とされ、多数の民を率いて渡来し、養蚕や絹織物の技術を日本に伝えたとされる人物は誰か?
Q. 八色の姓の中で第三位にランクされ、大伴氏や物部氏など、神別(神の末裔)の有力氏族などに与えられた姓は何か?
Q. 608年に遣隋使に同行して留学し、帰国後は大化の改新において旻(みん)とともに国博士に任命された留学生は誰か?