条坊制 (じょうぼうせい)
【概説】
都の内部を南北の通りと東西の通りによって碁盤の目状に規則正しく区画する都市計画の制度。中国の都城制をモデルに導入され、天皇を中心とする律令国家の支配権威を空間的に象徴する役割を果たした。
中国都城制の受容と日本における展開
条坊制は、古代中国の都城計画に源流を持つ。特に隋や唐の都である長安城の整然とした都市プランは、東アジア諸国に強い影響を与えた。日本においては、飛鳥時代後期から本格的な都城建設が模索され、694年に遷都された藤原京において初めて本格的な条坊制が採用された。藤原京の条坊制は、天皇の居所である宮城(藤原宮)を中央に配置する『周礼』考工記に基づく構造であったとされる。
その後、710年に遷都された平城京や、794年の平安京では、唐の長安城をより忠実に模倣し、宮城(大内裏)を都の北辺中央に配置する形式へと移行した。都の中央を南北に走る朱雀大路を基準に、東側を左京、西側を右京と区分し、東西の通りを「条」、南北の通りを「坊」と呼んで格子状の区画を完成させた。
条坊制が有した統治・社会的な機能
条坊制は、単なる道路の整備や都市景観の構築にとどまらず、律令国家による強力な人民支配と身分秩序の可視化という政治的意図を有していた。都の土地は原則として公地であり、そこに居住する貴族や官人、平民には身分(位階)に応じて一定の広さの宅地が班給された。身分の高い高位貴族ほど宮城に近く広い土地が与えられ、庶民は狭い土地に配置されるという、徹底した身分秩序が都市空間の中に視覚的に表現されていた。
また、条坊制の最小単位である「町(約120メートル四方)」には、行政・警察の末端組織が置かれ、住民の移動や防犯が厳格に管理された。さらに、東西には官営の市(東市・西市)が設けられ、都における物資の流通と価格の統制も国家の管理下で行われた。
中世への移行と条坊制の変容
平安時代中期以降、律令制の弛緩とともに条坊制は次第に変容を余儀なくされた。平安京においては、低湿地であった右京が早期に荒廃して居住に適さなくなり、人々は高燥な左京や、都の東限を越えた鴨川東岸(白河など)へと居住地を拡大させていった。これにより、当初の左右対称な都市構造は形骸化した。
さらに、治安の悪化にともない各「町」が独自に門を設けて自衛を図るようになり、国家による一元的な都市管理は崩壊していった。このように、国家権力を象徴した整然たる条坊空間は、中世における町衆主導の自立的な都市空間(町共同体)へと脱皮していくこととなる。