擦文文化 (さつもんぶんか)
【概説】
7世紀から13世紀頃にかけて、北海道全域および東北地方北部の一部で展開した独自の文化。本州の飛鳥・奈良時代から鎌倉時代前半に並行し、前段階の続縄文文化を継承して成立した。木の刷毛などで表面に擦ったような痕跡を残す「擦文土器」の使用や、本州からの技術伝播による鉄器の普及と住居内の竈(かまど)の導入、雑穀農耕の本格化などを特徴とする。
擦文文化の成立と生活様式の変容
擦文文化は、縄文文化の系譜を引く続縄文文化から発展して成立した。この文化の最大の特徴は、木片などの工具で表面を擦って文様をつけた擦文土器が使用されたことである。この土器の器形や制作技法には、同時期に本州で広く使われていた日常用土器である土師器(はじき)の影響が強く認められる。
生活面においては、本州との文化的接触を通じて大きな変容を遂げた。従来の竪穴住居には、本州の住居形式にならった竈(かまど)が北壁や東壁に設置されるようになり、暖房や調理の効率が飛躍的に向上した。また、本州からの流入によって鉄器が急速に普及し、狩猟・漁労具だけでなく、農具や日常工具としても広く使用されるようになった。これにより、従来の狩猟、漁労、植物採取に依存した生活から、アワ、キビ、ヒエ、ソバなどの雑穀農耕を本格的に取り入れた複合的な生業形態へと移行した。
北方世界・本州との交流とオホーツク文化
擦文文化が展開した時期の北海道は、決して孤立した世界ではなかった。本州の律令国家やその後の奥州藤原氏などの勢力に対し、擦文文化の担い手は鮭(サケ)や毛皮(オオワシの羽や獣皮など)を交易品として供給し、見返りとして鉄製品や米、漆器、絹織物などを得ていた。このような交易活動は、本州側の文字史料に登場する「渡島蝦夷(わたりしまえみし)」の動向とも深く結びついている。
一方、同時代の北海道のオホーツク海沿岸地域には、サハリン(樺太)方面から南下した海洋狩猟民族によるオホーツク文化が展開していた。擦文文化の担い手は、このオホーツク文化とも接触を重ねた。当初は対立関係もあったとされるが、次第に擦文文化側がオホーツク文化の拠点を吸収・融合していくこととなった。この過程で、クマをはじめとする動物を崇拝する儀礼など、北方由来の文化的要素が擦文文化の中へと取り込まれていった。
アイヌ文化への移行と歴史的意義
13世紀頃になると、擦文文化はオホーツク文化の要素を完全に取り込みつつ、さらなる変容を遂げる。土器の製作技術が衰退して本州から流入した内耳鉄鍋などの金属器へと代替され、住居様式も竪穴住居から平地式の「チセ」へと移行していった。この変化の先にあるのが、13世紀から14世紀にかけて確立されるアイヌ文化である。
日本史における擦文文化の意義は、本州の「稲作化・律令国家化」という画一的な歴史の歩みとは異なる、独自の北方独自の歴史プロセスを示している点にある。縄文文化から続縄文文化、擦文文化を経て近代のアイヌ民族へと至る、北の日本史の「連続性」を理解するうえで、極めて重要な架け橋となる時代区分である。