徳冨蘆花 (とくとみろか)
【概説】
明治から大正期にかけて活躍した小説家、随筆家。思想家・ジャーナリストとして知られる徳富蘇峰の弟であり、キリスト教的人道主義に根ざした小説『不如帰』や随筆『自然と人生』を著して国民的な人気を博した知識人。
兄・徳富蘇峰との確執とキリスト教信仰
徳冨蘆花(本名・健次郎)は、1868(明治元)年に肥後国(現在の熊本県)に生まれた。若き日に大江義塾や同志社英学校に学び、キリスト教の洗礼を受ける。この時に培われたキリスト教的人道主義(ヒューマニズム)は、生涯にわたる彼の思想的支柱となった。
蘆花は、兄である徳富蘇峰が主宰する民友社に入社して文筆活動を本格化させたが、日清戦争を契機に蘇峰がそれまでの平民主義から国家主義(対外強硬論)へと転向すると、平和主義・人道主義を貫く蘆花との間で深刻な思想的対立が生じた。1903(明治36)年、蘆花は蘇峰に対して「告別の書」を送り、兄との絶交を宣言。この決別は、明治期の言論界・思想界における「国家」と「個人(良心)」の相克を象徴する出来事であった。
『不如帰』の大ヒットと自然への傾倒
蘆花の名を一躍高めたのが、1898(明治31)年から『国民新聞』に連載された小説『不如帰』(ほととぎす)である。家制度の犠牲となり、結核に冒されて理不尽な離婚を強いられるヒロイン・浪子の悲劇を描いたこの作品は、多くの読者の涙を誘い、明治期最大の大ベストセラーとなった。また、自然描写に優れた随筆集『自然と人生』(1900年)も好評を博し、彼の文学的地位を不動のものとした。
その後、ロシアの文豪レフ・トルストイの非暴力主義や生活態度に傾倒した蘆花は、1906(明治39)年にロシアを訪ねてトルストイと会見。帰国後は東京郊外の千歳村(現在の東京都世田谷区粕谷の「蘆花恒春園」)に移住し、自ら土に親しむ「晴耕雨読」の生活を実践した。これは単なる隠遁ではなく、近代化がもたらす都市の退廃や非人間性に対する、蘆花なりの抵抗の意思表示でもあった。
大逆事件と「謀反論」の衝撃
蘆花の生涯において、社会的に最も大きな波紋を呼んだのが、1910(明治43)年の大逆事件に対する抗議行動である。幸徳秋水らの処刑を阻止しようと、蘆花は兄・蘇峰の人脈を通じて時の首相・桂太郎に助命嘆願を行うなど奔走したが、願いは叶わず刑が執行された。
国家権力の暴走に憤った蘆花は、翌1911(明治44)年、第一高等学校(一高)の弁論部大会に招かれた際、「謀反論」と題する講演を行った。「諸君、謀反を恐れてはならぬ。新しいものは常に謀反である」と説き、幸徳秋水らを擁護して明治政府の専制姿勢を真っ向から批判したこの講演は、当時の青年学生や知識人に強烈な思想的衝撃を与え、大正デモクラシー前夜における自由主義的・人道主義的抵抗の先駆けとして、今なお歴史的に高く評価されている。