府県会 (ふけんかい)
【概説】
1878(明治11)年の府県会規則に基づいて各府県に設置された、日本最初の公選制による地方議会。地方の豪農や豪商らが議員となって地方自治の端緒を開いたが、のちに自由民権運動の有力な拠点へと変貌を遂げた。
地方三新法と府県会の開設背景
明治政府は、廃藩置県によって中央集権体制を確立したものの、地租改正に伴う農民一揆や士族反乱(西南戦争など)に直面し、地方統治の安定が急務となっていた。そこで1878(明治11)年、内務卿の大久保利通が主導し、地方制度を再編するための「地方三新法」(郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則)が制定された。
このうち府県会規則に基づき、各府県に設置されたのが府県会である。その主な狙いは、地方税の経費や徴収方法を審議させることで地方住民の納税負担に対する不満を和らげる(いわゆるガス抜き)と同時に、勃興しつつあった自由民権運動を、制度内の穏健な言論へと誘導することにあった。
制限選挙と豪農層の進出
府県会の最大の特徴は、日本初の公選制(選挙制度)を導入した点にある。ただし、その選挙権は満25歳以上の男子で地租5円以上を納める者、被選挙権は満30歳以上の男子で地租10円以上を納める者に限定された極めて制限の強いものであった。この基準をクリアできたのは、地租改正以降に台頭した地方の豪農や豪商(素封家)といった寄生地主層であった。
府県会の権限は、知事(県令)の諮問に応じて地方税の予算・決算などを審議することに限定されており、最終決定権は官選の知事が握っていた。しかし、納税義務を負う豪農らが自らの手で税の使途を審議するという経験は、彼らに強い主権意識と政治的自覚を芽生えさせることとなった。
民権運動の拠点化と政府の対応
当初は政府による融和策として設けられた府県会であったが、議会の運営を通じて政治力を身につけた豪農議員たちは、次第に国政への関心を強めていった。彼らは地方税の増税や、県令による強権的な地方行政に対して厳しく対立するようになり、府県会は自由民権運動の強力な合流地点、すなわち言論・政治闘争の「拠点」へと変貌を遂げた。
特に1880年代に入ると、各地の府県会議員が中心となって「国会期成同盟」などの国会開設請願運動が活発化し、地方から中央政府を突き上げる存在となった。これに対し政府は、集会条例の強化や府県会規則の改訂を通じて知事の権限をさらに強め、府県会の解散処分や議員の逮捕を行うなど、民権派となった府県会への抑圧を強めていくこととなった。