崇徳上皇

鳥羽法皇から疎まれて実権を奪われ、保元の乱で後白河天皇方に敗れて讃岐へ配流された上皇は誰か。
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崇徳上皇 (すとくじょうこう)

1119年〜1164年

【概説】
平安時代末期の第75代天皇、のち上皇。父である鳥羽法皇に疎まれて実権を握れず、保元の乱で弟の後白河天皇方に敗れて讃岐国へ配流された。配流先で非業の死を遂げた後、朝廷に災いをもたらす強大な怨霊として恐れられ、後世において御霊信仰の対象となった。

出生の疑惑と不遇な天皇時代

崇徳天皇は、鳥羽天皇の第一皇子として生まれたが、母である藤原璋子(待賢門院)が鳥羽天皇の祖父・白河法皇と密通してできた子であるという噂が宮中で囁かれていた。『古事談』などの後世の説話によれば、鳥羽天皇は彼を「叔父子(おじご)」と呼んで忌み嫌っていたとされる。この真偽は定かではないが、白河法皇の強引な引き立てによりわずか5歳で即位したことが、後の悲劇の火種となった。

白河法皇の死後、治天の君として実権を握った鳥羽上皇(のち法皇)は、崇徳天皇を露骨に疎んじた。1141年、鳥羽上皇は自身の寵愛する藤原得子(美福門院)が産んだ体仁親王(近衛天皇)に皇位を譲るよう崇徳に迫った。崇徳は譲位を受け入れたものの、近衛天皇が「皇太弟(天皇の弟)」として即位する形をとらされたため、院政を敷く前提となる「天皇の父」としての立場を奪われ、政治的実権から完全に排除されることとなった。

保元の乱と讃岐流罪

近衛天皇が17歳で早世すると、崇徳上皇は自身の皇子である重仁親王の即位を期待した。しかし、鳥羽法皇と美福門院の意向により、崇徳の弟である雅仁親王(後白河天皇)が即位した。これにより、崇徳上皇の院政への望みは完全に絶たれてしまった。

1156年(保元元年)に鳥羽法皇が崩御すると、朝廷内の対立は一気に表面化した。崇徳上皇は、同じく政争に敗れて孤立していた左大臣・藤原頼長と結び、源為義や平忠正らの武士を集めて挙兵を企てた。しかし、先手を打った後白河天皇陣営の源義朝や平清盛らによる夜襲を受け、凄惨な市街戦の末に敗北した(保元の乱)。崇徳上皇は仁和寺で出家して降伏したものの許されず、讃岐国(現在の香川県)へと流罪となった。天皇や上皇の配流は、奈良時代の藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)における淳仁天皇以来、約400年ぶりの異常事態であった。

悲憤の死と呪詛の伝説

讃岐での配流生活において、崇徳上皇は当初、仏教に深く帰依し、極楽往生を願って五部大乗経の写経に専念した。彼は戦死者の供養と反省の意を込め、完成した写本を京都の寺に奉納するよう朝廷に願い出た。しかし、後白河天皇は「呪詛が込められているのではないか」と疑い、これを冷酷に突き返した。

この仕打ちに激怒した崇徳上皇は、自らの舌を噛み切ってその血で経典に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」という凄まじい呪詛を書き記したと伝わる。以後、彼は髪や爪を伸ばし続けて天狗のような姿になり、生きながらにして魔道に堕ちたとされ、1164年に失意と憤怒の中で崩御した。

怨霊の顕現と鎮魂の歴史

崇徳上皇の死後、京都では安元の大火や鹿ヶ谷の陰謀、平家一門の台頭と滅亡、さらには源平の争乱など、朝廷や社会の根底を揺るがす大事件や凶事が相次いだ。これらは「崇徳上皇の怨霊の祟り」として恐れられるようになり、長年彼を冷遇した朝廷や後白河法皇も、ついにその怨霊を認めて鎮魂に乗り出すこととなった。「讃岐院」と呼ばれていた彼に「崇徳院」の院号を贈り、配流地である讃岐の白峯陵を手厚く保護した。

後世においても、崇徳上皇は菅原道真や平将門と並ぶ「日本三大怨霊」の一人として畏怖され続けた。幕末の1868年(慶応4年)、明治天皇が即位の礼を行うに際しては、勅使を讃岐に派遣して崇徳上皇の御霊を京都に帰還させ、白峯神宮を創建して手厚く祀った。これは、武家政権から天皇親政へと回帰する王政復古の過程において、皇室が抱える歴史的な「負の遺産」を清算し、近代国家の安泰を祈願する極めて重要な政治的・宗教的儀式であった。

怨霊とは何か – 菅原道真・平将門・崇徳院 (中公新書)

日本史上を騒がせた怨霊たちの真実を紐解き、呪いや崇りという概念が社会に与えた深遠な影響を解き明かす一冊。

保元・平治の乱 平清盛 勝利への道 (角川ソフィア文庫)

保元・平治の乱の複雑な政局を読み解き、武士が台頭する歴史の転換点において平清盛がいかにして権力を掌握したかの軌跡。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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A.