山口
【概説】
周防国(現在の山口県)に位置する地名。室町時代から戦国時代にかけて西国を支配した守護大名・大内氏の本拠地であり、京都の公家文化や大陸・西洋の文化が融合して栄えた都市。その繁栄ぶりから「西の京」と称され、宣教師フランシスコ・ザビエルによるキリスト教布教の地としても知られる。
大内氏による「西の京」の形成と大内文化
南北朝時代から室町時代にかけて、周防国を本拠とする守護大名大内氏は、山口を新たな本拠地として整備した。大内氏は京都を模した碁盤の目状の都市計画を導入し、一の坂川を京都の鴨川に見立てるなど、雅な都市づくりを進めた。さらに、1467年に勃発した応仁の乱によって京都が荒廃すると、戦火を避けた多くの公家や文化人、僧侶たちが大内氏を頼って山口へと下向した。これにより、山口は日本屈指の文化的都市へと変貌を遂げた。
大内氏は地理的な優位性を活かして日明貿易(勘合貿易)や朝鮮との貿易を独占し、巨万の富を築いた。この経済力を背景に、京都の伝統文化と大陸の先進文化が融合した独自の大内文化が花開いた。画僧の雪舟が山口に滞在して画風を確立したほか、大内氏の全盛期を築いた大内義興・義隆の時代には、優美な瑠璃光寺五重塔に代表される高度な建築や芸術が栄えた。
宣教師ザビエルの来航とキリスト教布教
1550年、日本にキリスト教を伝えたイエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルが山口を訪れた。当時、山口を統治していた大内義隆はザビエルと謁見し、布教の公認と住居(廃寺であった大道寺)を与えた。義隆はキリスト教の教理だけでなく、南蛮貿易による交易利得や、西洋の学術・技術への知的好奇心から彼らを保護したとされる。山口は日本におけるキリスト教布教の重要な拠点となり、1552年には日本で最初とされるクリスマス(聖誕祭)のミサが山口の地で執り行われた。
大内氏の滅亡と幕末における再興
山口の繁栄は、1551年の大寧寺の変(家臣の陶晴賢による大内義隆への謀反)によって大内氏が没落したことで一時的に衰退を迎える。その後、中国地方を制覇した毛利元就によって大内氏は滅ぼされ、山口は毛利氏の支配下に入った。関ヶ原の戦い後、毛利氏は防長2国に減封され、萩に城を築いた(萩藩)ため、山口は一時的に政治の中心から外れることとなった。
しかし幕末期の1863年、13代藩主の毛利敬親は、対外緊張の高まりや京都への政治的アプローチの利便性を考慮し、藩庁を萩から山口(山口政事堂)へと移転した。これにより山口は、明治維新を推進する長州藩の事実上の首都として復活し、木戸孝允や大村益次郎などの志士たちが集う、近代日本誕生の重要な舞台となった。