定朝 (じょうちょう)
【概説】
平安時代後期に活躍した、日本彫刻史上極めて重要な仏師。それまで主流だった一木造に代わり、効率的な「寄木造」の技法を大成させた。藤原道長・頼通らの摂関政治の絶頂期に重用され、国風文化を象徴する優美で洗練された「定朝様」と呼ばれる仏像彫刻の様式を確立した。
寄木造の完成と工房による組織的造仏
定朝が果たした最大の技術的貢献は、寄木造(よせぎづくり)の技法を大成させたことである。それまでの飛鳥・奈良・平安初期の仏像は、一本の原木から彫り出す「一木造(いちぼくづくり)」や、頭体部を一木から造り出す手法が主流であった。しかし一木造は、木材の乾燥によるひび割れが生じやすく、また巨像の製作には限界があった。定朝は、細かく分けた部材を寄せ合わせて一つの仏像を形作る手法を確立した。この技法により、内部を空洞にする(内刳り)ことでひび割れや重量を抑えることが可能となった。さらに、複数の仏師による分業体制が整備され、工房における組織的かつ迅速な大量生産(造仏)が可能になった。
定朝様の確立と浄土教の流行
11世紀の日本は、末法思想の到来によって極楽往生を希求する浄土教(浄土信仰)が貴族の間で急速に広まった時代であった。藤原道長が建立した法成寺や、その子である藤原頼通が建立した宇治の平等院鳳凰堂など、摂関家による大規模な寺院建立が相次いだ。定朝はこれらの造仏を主導し、浄土の阿弥陀仏にふさわしい、丸みを帯びた円満な表情と、浅く流れるような衣文(衣服のしわ)の表現を特徴とするスタイルを創り出した。これを定朝様(じょうちょうよう)と呼ぶ。平等院鳳凰堂の本尊である「阿弥陀如来坐像」は、定朝の確実な遺品として唯一現存するものであり、平安貴族が憧れた極楽浄土の絶対的な美を今に伝えている。
仏師の社会的地位の向上と後世への展開
定朝の功績は、工芸技術者としての仏師の社会的地位を飛躍的に高めた点にもある。1022(治安2)年の法成寺金堂の落慶にあたり、定朝は仏師として史上初めて法橋(ほっきょう)という僧位を授けられ、後にさらに上位の法眼(ほうげん)へと昇った。これにより、単なる「職人」であった仏師が、国家的な芸術家として認知される道が開かれた。定朝の死後、彼の系統を受け継いだ子孫や弟子たちは、円派・院派・慶派などの諸派を形成し、それぞれ京都や奈良を中心に独自の発展を遂げた。彼の創始した優美な和様彫刻の伝統は、のちの鎌倉時代における力強い写実主義へと至る、日本彫刻史の揺るぎない基盤となった。