大政翼賛会 (たいせいよくさんかい)
【概説】
1940年(昭和15年)、近衛文麿が推進した新体制運動の結果として結成された官製国民統合組織。内閣総理大臣を総裁とし、地方行政機関や隣組と結びつくことで、国民を戦争へと動員するための強力な上意下達の機関として機能した。
新体制運動の展開と結成の背景
1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争が長期化・泥沼化する中、日本国内では総力戦を戦い抜くための「高度国防国家」の建設が急務とされていた。同時にヨーロッパではナチス・ドイツが電撃戦で圧倒的な勝利を収めており、こうしたファシズム国家の強力な指導体制に影響を受けた軍部や革新官僚、一部の政治家たちは、日本にも一国一党の強力な政治体制が必要であると考えるようになった。
このような状況下、1940年夏に近衛文麿は「新体制運動」を提唱した。これは、既存の政党や労働組合などを解体し、国民のあらゆる階層を一つの組織に統合して国策に協力させようとする運動である。この呼びかけに呼応する形で、社会大衆党を皮切りに、立憲政友会や立憲民政党などの既成政党は次々と自主的に解散し、労働組合も解体されて大日本産業報国会などに改組されていった。そして同年10月12日、政治・経済・文化の全領域を網羅する国民指導機関として大政翼賛会が発足した。
組織の構造と内務省による統制
大政翼賛会の組織体制は、政府と一体化した極めて中央集権的なものであった。中央本部の総裁には時の内閣総理大臣が就任し(初代総裁は近衛文麿)、その下に道府県、市、郡、町村の各支部が置かれた。注目すべきは、これら地方支部の支部長には地方長官(知事)や市町村長が就任し、さらにその末端には町内会・部落会・隣組といった住民組織が組み込まれたことである。これにより、大政翼賛会は政府の政策を国民の生活単位まで徹底させる完璧な上意下達のネットワークを形成した。
しかし、近衛らが当初目指した「強力な政治指導政党(幕府のような存在)」としての役割は果たせなかった。天皇親政という国体観念を重んじる観念右翼や、権限の低下を恐れる内務省官僚からの猛反発を受けたためである。その結果、大政翼賛会は政治結社(政党)ではなく、公法上の「公事結社」という曖昧な位置づけに留められ、実態としては内務省の行政補助機関、あるいは国民統制のための巨大な教化団体へと変質していった。
議会制民主主義の形骸化と翼賛選挙
大政翼賛会そのものは政党ではなかったものの、既成政党の解散により、帝国議会は政党のない無所属議員の集まりとなっていた。そこで、議会を政府の完全な追認機関とするための工作が進められた。1942年(昭和17年)、東條英機内閣の下で行われた第21回衆議院議員総選挙、いわゆる「翼賛選挙」である。
この選挙では、大政翼賛会の下部組織として急遽設立された翼賛政治体制協議会(翼協)が、政府に協力的な候補者を推薦し、警察などの国家機関が推薦候補を強力に支援する一方で、非推薦候補には激しい選挙干渉が行われた。結果として推薦候補が議席の圧倒的多数(8割以上)を占め、選挙後には全議員が参加する翼賛政治会が結成された。これにより、明治以来続いてきた日本の議会制民主主義は完全に形骸化し、政府の戦争遂行方針に異を唱えることは事実上不可能となった。
歴史的意義と終焉
大政翼賛会は、大日本産業報国会(労働)、大日本農業報国会(農民)、大日本婦人会(女性)、大日本青少年団(若者)などの各種団体を傘下に収め、配給制度や防空訓練などを通じて国民生活を徹底的に戦争へと動員する役割を担った。それは、国家と社会を一体化させ、国民一人ひとりを国家の歯車として組み込む日本型ファシズムの完成形態であったと言える。
しかし、戦局が絶望的となった1945年(昭和20年)、本土決戦に向けた新たな体制構築の必要性から、大政翼賛会は翼賛政治会などと共に解散され、同年6月に国民義勇隊へと吸収改組される形でその役割を終えた。戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって大政翼賛会の関係者の多くが公職追放の対象となり、軍国主義を推進した最大の機関として歴史の審判を受けることとなった。