国学(奈良時代) (こくがく)
【概説】
奈良時代の律令制下において、諸国に設置された地方の官立教育機関。国司の管轄のもと、主に地方豪族である郡司の子弟らを対象とし、地方官人として必要な教養や実務能力を習得させることを目的とした。
「大学」と「国学」:律令国家の二本立て教育体系
大宝律令(701年)や養老律令(718年制定、757年施行)の「学令(がくりょう)」に基づき、律令国家は中央と地方にそれぞれ教育機関を整備した。中央には式部省が管轄する大学(だいがく)が置かれ、五位以上の貴族や文人の子弟を教育した。これに対し、地方の各国に設置されたのが国学(こくがく)である。
国学は国衙(こくが)の近くに置かれ、地方を実質的に支配していた郡司などの地方有力者の子弟(主に大領・少領の子弟)を学生(がくしょう)として受け入れた。これは、中央集権体制を末端まで維持するために、地方を治める実務者層に律令の理念や儒教的な教養を身に付けさせる必要があったからである。
教育内容と国博士の役割
国学の教育課程では、儒教の経典である『論語』や『孝経』などの経書を学ぶことが基本とされた。こうした教育を指導するため、中央から国博士(くにのはかせ / こくはかせ)が各令国に派遣された。国博士は学生の教育に加え、地方官人登用試験の実施や、地方における礼儀作法の指導も担った。
また、実務的な知識として医学の教育も重視され、国医師(くにのくすし)が配置されて医療技術の伝授が行われた。これにより、国学は単なる教養教育の場にとどまらず、地方の文化・技術水準を向上させる中核としての役割も果たしていた。
国学の歴史的意義と衰退
国学の設置は、在地の伝統的な首長層であった地方豪族を、律令国家の忠実な末端官僚へと変貌させる思想的教化の装置として、きわめて重要な意義を持っていた。国学を修了した学生は、選考(試験)を経て郡司の役職や国衙の実務官人へと登用された。
しかし、奈良時代後期から平安時代にかけて律令体制が徐々に弛緩し、郡司の地位が世襲化して実力主義的な登用が機能しなくなると、国学の存在意義は薄れていった。さらに地方財政の悪化も重なり、平安時代中期には、多くの国で国学は形骸化し、事実上消滅することとなった。