労働組合結成
【概説】
第二次世界大戦後のGHQによる占領政策の下、日本の民主化を推進するための「五大改革指令」の一つとして奨励された政策。マッカーサーの指示に基づき、労働者の団結権や団体交渉権などが法的に保障された結果、戦前は厳しく弾圧されていた労働運動が急速に復活・発展を遂げることとなった。
GHQによる民主化要求と五大改革指令
戦前の日本では、治安警察法や治安維持法などによって労働運動は厳しく弾圧され、正当な労働組合の結成やストライキは事実上不可能であった。第二次世界大戦の敗戦後、日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、日本の非軍事化と民主化を最優先課題として掲げた。1945(昭和20)年10月、GHQ最高司令官のマッカーサーは、新たに就任した幣原喜重郎首相に対し、日本の民主化を推進するための「五大改革指令」を口頭で指示した。その第一項目に掲げられたのが「労働組合の結成奨励」であり、これは労働者に強い団結権を与え、資本家や保守層の旧体制的な力を牽制することで、日本に民主主義の基盤を定着させようとするGHQの明確な意図に基づくものであった。
労働三法の制定と基本権の確立
マッカーサーの指令を受けた日本政府は、直ちに労働組合の結成を法的に裏付けるための制度整備に着手した。1945年12月には、労働者の団結権・団体交渉権・争議権(ストライキ権)という、いわゆる労働基本権を保障した労働組合法が制定された。これは日本の歴史上初めて、労働者の基本的な権利を明確に認めた画期的な法律であった。その後、労働争議の予防と平和的解決を目的とする労働関係調整法(1946年)、労働条件の最低基準を定めた労働基準法(1947年)が相次いで制定され、これらは現在に至るまで「労働三法」として日本の労働法制の根幹をなしている。さらに、1946年に公布された日本国憲法第28条においても、労働基本権(労働三権)が基本的人権の一つとして明示的かつ恒久的に保障されることとなった。
労働運動の爆発的拡大と急進化
強固な法的保障と、戦後の極端な食糧難・悪性インフレという過酷な生活環境を背景に、日本の労働者は自らの生活と権利を守るために一斉に立ち上がった。1945年の終戦直後には皆無に等しかった労働組合は、またたく間に全国の職場に波及し、わずか数年で数百万人の組合員を擁する巨大な組織へと急成長を遂げた。1946年には、共産党系の産別会議(全日本産業別労働組合会議)や、社会党系の総同盟(日本労働組合総同盟)といった全国的なナショナルセンターが結成された。労働者たちは「生産管理闘争」をはじめとする激しい労働争議を展開し、読売争議や東宝争議など、社会の耳目を集める大規模なストライキが全国各地で頻発することとなった。
冷戦の激化と占領政策の転換(逆コース)
しかし、労働組合の結成が進み、労働運動が急進化して日本共産党の強い影響下に置かれるようになると、GHQの態度は次第に変化していった。その象徴的な出来事が、1947年2月1日に予定されていた全国規模のストライキ(二・一ゼネスト)に対する、マッカーサーの絶対的な中止命令である。さらに、東西冷戦が激化し、中国大陸で共産党が勝利に近づくと、アメリカの対日占領政策は「民主化」から「経済復興と反共の防波堤化」へと大きく転換した(逆コース)。1948年にはマッカーサー書簡を受けた政令201号(およびそれに続く国家公務員法改正など)によって公務員のストライキ権が全面的に剥奪され、1949年以降はレッドパージ(共産党員や同調者の公職・企業からの追放)が断行された。戦後初期に無条件で推奨された労働組合結成と労働運動の発展は、冷戦構造という国際情勢の波に巻き込まれ、次第に権力による統制と再編の道を歩むこととなった。