前田利家

五大老の一人で、加賀(石川県)を領し、秀吉の死後は徳川家康を牽制する役割を期待されたが病死した人物は誰か?
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重要度
★★★

前田利家

1539〜1599

【概説】
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり、豊臣政権下における五大老の一人。織田信長、豊臣秀吉に仕えて数々の武功を挙げ、のちの加賀百万石の礎を築き上げた。秀吉の死後は徳川家康の専横を抑える最大の対抗馬として政権を支えたが、彼の病死により豊臣家の内部崩壊が決定的となった。

織田信長配下としての飛躍と「槍の又左」

前田利家は、尾張国海東郡荒子村(現在の名古屋市中川区)の土豪の四男として生まれた。若くして織田信長に小姓として仕え、その見目麗しさと血気盛んな性格から寵愛を受けた。特に槍術に優れ、初陣から長槍を携えて武功を重ねたため、「槍の又左」(又左衛門は通称)の異名で敵味方に恐れられた。信長直属の親衛隊である赤母衣衆(あかほろしゅう)の筆頭に抜擢されるなど、信長の若手武将のなかでも出世頭であった。

しかし、信長の同朋衆を斬殺する事件を起こして一時出仕停止となるなど、波乱に満ちた青年期を送った。その後、桶狭間の戦いや森部の戦いなどに無断で参戦して首級を挙げることで帰参を許され、以降は織田軍の主力として各地を転戦した。天正年間に入ると、北陸方面軍の司令官である柴田勝家の与力として越前の一向一揆平定などに従事し、その功績により能登一国を与えられ、大名としての第一歩を踏み出した。

賤ヶ岳の戦いと秀吉との盟友関係

天正10年(1582)の本能寺の変により信長が横死すると、利家は大きな決断を迫られる。信長の後継者を巡って、北陸時代の上官であった柴田勝家と、若き日からの無二の親友であった羽柴(豊臣)秀吉が対立したからである。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いにおいて、利家は当初勝家方として参陣したものの、戦場の要衝から突如として軍を引いた。この利家の離脱により柴田軍の戦線は崩壊し、秀吉の勝利が決定づけられた。

戦後、秀吉から本領を安堵された利家は、秀吉の天下統一事業において欠かせない腹心として活躍するようになる。小牧・長久手の戦いでは越中国の佐々成政の侵攻を防ぎ(末森城の戦い)、その後の北条氏討伐(小田原征伐)でも北陸軍を率いて武功を挙げた。利家と秀吉の強い信頼関係は、正室のまつ(芳春院)と秀吉の正室・北政所(おね)との親交も手伝って、豊臣政権内で利家に独自の確固たる地位をもたらした。

豊臣政権の重鎮と加賀百万石の礎

秀吉の天下統一が成った後、利家は加賀・能登・越中の一部を領する大大名へと成長し、後に「加賀百万石」と称される加賀藩の強固な基盤を形成した。豊臣政権下では、徳川家康、毛利輝元らとともに五大老の一人に任じられ、国政の最高決定機関に名を連ねた。さらに、秀吉の待望の嫡男である豊臣秀頼の傅役(もりやく)を託され、大坂城に入って秀頼の庇護と政権の補佐にあたるなど、秀吉から最も厚い信任を受けていた。

秀吉死後のバランサーとしての役割とその死の波紋

慶長3年(1598)に秀吉が没すると、豊臣政権内部のパワーバランスは急激に不安定化した。関東250万石を領する筆頭大老・徳川家康が、諸大名との私婚を結ぶなど、秀吉の遺命に背いて専横を強め始めたからである。この家康の動きに対し、武断派・文治派を問わず多くの豊臣恩顧の武将たちが反発したが、その急先鋒に立ち、家康に対抗し得る唯一の存在が利家であった。利家は人望が厚く、加藤清正や福島正則ら武断派諸将からも父親のように慕われており、政権内の対立を調停する最大のバランサーとして機能した。

一時は家康と利家が武力衝突する寸前まで緊張が高まったが、両者は直接会談して和解し、事態は収拾された。しかし、利家はすでに重い病に冒されており、家康との和解から間もない慶長4年(1599)閏3月、大坂の自邸においてこの世を去った。

利家の死は、豊臣政権にとって致命的な打撃となった。彼の死の直後、利家という重石が外れたことで、武断派七将による石田三成襲撃事件が勃発する。豊臣家臣団の分裂はもはや修復不可能となり、家康の覇権掌握を止める者は誰もいなくなった。前田利家の死は、翌年の関ヶ原の戦い、そして豊臣家滅亡へと歴史が大きく動き出す直接的な引き金となったのである。

前田利家・利長軍記 (日本合戦騒動叢書 14)

戦国乱世を駆け抜けた加賀藩主親子の武功と、激動の時代を背景に生き抜いた武将たちの足跡を辿る貴重な戦記。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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