二宮尊徳(金次郎) (にのみやそんとく(きんじろう)
【概説】
徹底した勤労と倹約を重んじる「報徳仕法」を唱え、江戸時代後期の関東地方を中心とする荒廃した農村の復興に尽力した農政家・思想家。没落した生家を自力で再興した経験をもとに、独自の合理的かつ道徳的な経済思想を確立し、多くの大名や幕府からも登用されて地域社会の救済にあたった。
没落からの再興と立身出世
1787(天明7)年、相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市)の豊かな農家に生まれる。しかし、幼少期に酒匂川の氾濫で田畑を失い、その後両親と立て続けに死別したため、一家は離散の憂き目に遭った。叔父のもとに身を寄せた尊徳は、昼夜を問わず農業に励みながら寸暇を惜しんで独学で学問を修めた。薪を背負い歩きながら本を読む「二宮金次郎」の姿は、この苦難の青年期のエピソードに由来する。
自らの徹底した勤勉と倹約によって見事に生家を再興することに成功した尊徳は、その手腕を買われ、小田原藩の家老・服部家の財政再建を任される。ここでも大きな成果を上げたことで、小田原藩主・大久保忠真に見出され、藩の飛び地であった下野国桜町領(現在の栃木県真岡市)の復興という大事業を命じられることとなった。
報徳仕法とその実践的経済思想
尊徳が提唱し、農村復興の柱とした独自の思想と政策を「報徳仕法」と呼ぶ。これは、「至誠(誠実に行動すること)」「勤労(自らの役割を果たすこと)」「分度(収入に応じた身の丈に合った支出に留めること)」「推譲(分度によって生み出した余剰を他者や将来のために譲ること)」の四つの徳目から構成されていた。
報徳仕法の最大の特徴は、単なる精神論や道徳論にとどまらず、厳密な現状分析に基づく極めて合理的な経済政策であった点である。尊徳は、村の過去の収穫量や人口動態などを緻密に調査・推計し、実現可能な年貢や生活費の基準(分度)を設定した。さらに、村の有力者から資金を集めて無利息または低利で貸し付ける「報徳金」の制度を設け、農民の生活再建や農具・肥料の購入を支援した。尊徳は道徳と経済を不可分なものと考え、「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」という理念を実践を通して体現したのである。
荒廃する関東農村の立て直し
尊徳が活躍した江戸時代後期は、貨幣経済の農村への浸透に伴う階層分化や、天明の飢饉・天保の飢饉といった大災害の打撃により、関東地方を中心に農村の荒廃が深刻化していた時代であった。農民の離村や田畑の放棄が相次ぎ、幕府や諸藩の財政基盤を揺るがす事態となっていた。
小田原藩主の命を受けた尊徳は、長年の苦労の末に桜町領を豊かな村へと甦らせた。この実績が広く知れ渡ると、相馬中村藩や烏山藩など、領内の立て直しに苦慮する各地の大名や旗本から指導を請われるようになる。尊徳とその門人たちは、生涯で関東を中心とする約600もの村々の復興を手掛けた。その名声は幕府にも届き、後年には幕臣(普請役)に取り立てられ、日光神領の復興事業という大規模なプロジェクトにも着手したが、その完成を見ることなく1856(安政3)年に病没した。
後世への影響と「二宮金次郎像」
明治時代に入ると、尊徳の教えである「報徳思想」は、近代化を目指す日本において資本主義の精神的支柱の一つとして再評価された。さらに、貧困から身を立てて社会に貢献したその生涯は、国民的道徳の模範とされ、戦前の修身の教科書で大々的に取り上げられた。
全国の小学校の校庭には「薪を背負って読書する金次郎」の銅像が数多く建立され、勤労と勉学(忠孝)の象徴として広く親しまれた。国家主義的な教育に利用された側面もあるが、実際の尊徳は、旧弊にとらわれず緻密なデータを用いて疲弊した地域社会を救済した、極めて実践的かつ合理的な経世済民の思想家にして実務家であった。現在でも、彼の残した地域おこしの手法や経営哲学は、多くの経営者や地方行政において高く評価され続けている。