マスメディア
【概説】
新聞、雑誌、ラジオなど、大量の情報を不特定多数の大衆に一斉に伝達する媒体のこと。第一次世界大戦後の経済発展や教育の普及を背景に急速に発達し、大正期から昭和初期にかけての大衆文化の形成に決定的な役割を果たした。
マスメディア発達の歴史的背景
日本においてマスメディアが本格的に発達したのは、1910年代後半から1920年代にかけての大正時代である。その背景には、第一次世界大戦による大戦景気を通じた資本主義の高度化と、それに伴う都市化の進展があった。都市部にはサラリーマンなどの新中間層(ホワイトカラー)が形成され、彼らが新たな情報の受け手となった。
さらに、明治期から進められてきた義務教育の普及により国民の識字率が飛躍的に向上していたことや、輪転機の導入など印刷技術の革新が進んだことも、活字情報の大量生産・大量消費を可能にした。こうした社会構造の変化を基盤として、大正デモクラシーと呼ばれる自由主義的・民主主義的な風潮が広がり、政治や社会情勢に対する大衆の関心が高まったことも、マスメディアの発達を強く後押しした。
新聞の巨大化と総合雑誌の台頭
明治時代の新聞は、特定の政治的主張を掲げる「政論新聞」と、娯楽中心の「小新聞」に分かれていたが、大正時代に入ると報道と娯楽の両方を提供する大衆紙へと一本化されていった。特に『大阪朝日新聞』や『大阪毎日新聞』などの有力紙は、販売網を全国に拡大して発行部数を数百万部単位に伸ばし、強大な情報発信力を持つ巨大資本へと成長した。これらの新聞は、米騒動(1918年)や普通選挙獲得運動などの際に世論を喚起し、時の内閣を退陣に追い込むほどの社会的影響力を持った。
また、知識人や学生の間では『中央公論』や『改造』といった総合雑誌が広く読まれた。これらの雑誌は、吉野作造の民本主義をはじめとする新しい思想や、ロシア革命後の社会主義思想などを紹介し、大正期の進歩的な言論空間を形成する重要な舞台となった。
大衆雑誌と「円本」ブームによる出版大衆化
1920年代半ばになると、知識人向けではなく、より広く一般大衆の娯楽を目的とした出版物が次々と創刊された。その象徴が、大日本雄弁会講談社(現・講談社)が1925年に創刊した大衆雑誌『キング』である。大衆小説、実用記事、講談などを詰め込んだ同誌は、最高で150万部という驚異的な発行部数を記録し、国民的雑誌となった。また、『サンデー毎日』や『週刊朝日』(ともに1922年創刊)といった週刊誌もこの時期に誕生している。
さらに、1926年には改造社が1冊1円の『現代日本文学全集』の予約出版を開始して大ヒットを記録し、各社がこれに追随して大規模な円本(えんぽん)ブームが巻き起こった。翌1927年には、岩波書店が安価で携帯に便利な岩波文庫を創刊した。これらの動きにより、書物は「一部の特権階級が所有するもの」から「大衆が気軽に消費するもの」へと完全に移行した。
ラジオ放送の開始と新たなメディア空間
活字メディアに続いて、音声という新たな形態で登場したマスメディアがラジオである。1925年(大正14年)、東京放送局(JOAK、のちの日本放送協会・NHK)によって日本初のラジオ放送が開始され、その後すぐに大阪、名古屋でも放送が始まった。
ラジオは、活字を読むことができない層にも瞬時に同一の情報を届けることができる画期的なメディアであった。ニュース速報や天気予報といった実用情報のほか、音楽、落語、そして全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園)などのスポーツ中継が人気を博した。ラジオの普及は、全国津々浦々の国民に対して均質化された娯楽と情報を提供し、国民的な連帯感や大衆文化の共有を促進した。
歴史的意義と昭和期への影響
大正期におけるマスメディアの発達は、社会の情報を一部の支配層から解放し、不特定多数の「大衆」が政治や文化に参加するための基盤を作り上げた。これは日本の近代社会における「情報の民主化」という大きな歴史的意義を持っている。
しかし一方で、マスメディアは一方向から巨大な情報を流し込み、人々の意識を特定の方向へ誘導しやすいという両義的な性質を持っていた。昭和時代に入り、満州事変(1931年)から日中戦争へと至る過程において、新聞やラジオは軍部の行動を熱狂的に支持する世論を形成することになる。国家総動員体制下において、マスメディアは政府の厳しい言論統制下に置かれ、戦争遂行のための強力なプロパガンダ(政治宣伝)機関として国民を総力戦へと動員していく役割を担うこととなった。