トルデシリャス条約 (とるでしりゃすじょうやく)
【概説】
大航海時代の1494年にスペインとポルトガルの間で結ばれた、世界を東西に分割する勢力圏画定条約。ローマ教皇の仲介で設定された世界分割線をポルトガル側の要求で西に移動させて合意した。日本史においては、のちの南蛮貿易の展開やキリスト教伝来、ひいては織豊政権・江戸幕府の対外・禁教政策に深く関わる世界秩序の起点となった。
大航海時代の幕開けと世界二分劇
15世紀末、コロンブスの新大陸到達によって海外進出を本格化させたスペインと、アフリカ航路を開拓してインド洋への進出を狙うポルトガルの間で、新領土の帰属をめぐる対立が激化した。1493年、スペイン出身のローマ教皇アレクサンデル6世は、アゾレス諸島などの西方に「教皇子午線」を設定し、その東側をポルトガル、西側をスペインの領有・布教権(パトローナト)と定めた。
しかし、この境界線に不満を抱いたポルトガルがスペインと直接交渉を行い、翌1494年に境界線をさらに西へ移動させたトルデシリャス条約を締結した。この結果、のちに発見されるブラジルがポルトガル領となる一方、それ以外の南北アメリカ大陸の大半はスペインの勢力圏とされ、両国による世界分割の基本線が画定した。
サラゴサ条約と極東日本への影響
地球が球体である以上、大西洋上に引かれた境界線は、地球の反対側(アジア側)でも衝突を引き起こすことになった。特に香料諸島(モルッカ諸島)の帰属をめぐって両国が再び対立したため、1529年に東経145度付近に第2の境界線を設けるサラゴサ条約が締結された。
日本はこのサラゴサ条約の境界線の極めて近くに位置することとなった。実質的には、アジアの主要な商業権を得たポルトガルが、マカオを拠点に日本への来航(1543年の鉄砲伝来など)や南蛮貿易、イエズス会によるキリスト教布教を主導した。その後、フィリピンの領有を確立したスペイン(マニラを拠点とするフランシスコ会など)も日本への関与を強め、日本はまさに西欧二大強国の勢力圏が接触する最前線となったのである。
織豊政権の対外警戒感と「鎖国」への道
トルデシリャス条約とサラゴサ条約の背景には、ローマ教皇が両国に与えた「領土拡張とカトリック布教の一体化(保護聖職権)」の思想が存在した。これは、布教が進んだ地域を自国の領土として編入することを正当化する論理を内包していた。
天下統一を進めていた豊臣秀吉は、キリシタン大名による土地の寄進や、長崎がイエズス会領となっていた事実に直面し、こうした西欧の領土的野心を敏感に察知した。1587年のバテレン追放令や、1596年のサン=フェリペ号事件におけるスペインの脅威(「宣教師を先方に送り、信者を増やして内応させてから軍隊を送って征服する」という風説)は、まさにこの条約が内包する「世界分割と植民地化」の論理に対する警戒の表れであった。この対外的な警戒感と「国家主権の維持」という課題は、のちの徳川幕府による禁教令や、いわゆる「鎖国」(貿易管理体制の構築)へとつながっていく歴史的伏線となった。