北条高時

鎌倉幕府の滅亡時に得宗の地位にあり、新田義貞に鎌倉を攻め落とされて東勝寺で一族とともに自刃した人物は誰か?
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★★★

北条高時 (ほうじょう たかとき)

1303年〜1333年

【概説】
鎌倉幕府の第14代執権であり、北条氏本流である得宗家の最後の当主。幼くして家督を継いだため、内管領の長崎高資らに実権を握られ、幕府の求心力低下を招いた。後醍醐天皇の倒幕運動を契機とする動乱のなか、新田義貞の鎌倉侵攻を受けて一族とともに自刃し、約150年続いた鎌倉幕府は滅亡した。

得宗家当主としての生い立ちと執権就任

北条高時は、第9代執権・北条貞時の三男として生まれた。1311年(応長元年)、高時がわずか9歳の時に父・貞時が死去したため、北条氏の嫡流である得宗家の家督を継承することとなった。しかし、高時が若年であったため、幕府の実権は外祖父の安達時顕や、得宗家の家臣(御内人)の筆頭である内管領の長崎円喜・高資父子に掌握されていった。

その後、北条氏庶流の執権が数代続いたのち、1316年(正和5年)、高時は14歳で第14代執権に就任する。しかし、執権就任後も長崎氏の権勢は衰えず、国政の決定権は長崎氏や安達氏ら一部の有力者に握られていた。高時は実質的な傀儡(かいらい)状態に置かれ、幕府指導部における権力闘争や専横は、一般御家人たちの強い不満を引き起こすこととなった。

『太平記』における暗君像と近年の評価

古典文学である『太平記』において、高時は闘犬や田楽(伝統的な歌舞)などの遊興に異常なまでに耽溺し、政務を顧みなかった「暗君」として描かれている。このイメージは後世に長く定着したが、近年の歴史学研究においては、こうした描写は後醍醐天皇や足利氏による倒幕を正当化するために誇張されたものであると指摘されている。

実際の高時は病弱であり、1326年(嘉暦元年)には病を理由に24歳の若さで出家し、執権職を退いている。強大な権力基盤を持つ長崎氏の掣肘を受けながら、主体的な政治指導力を発揮できずに苦悩した当主というのが、現在の実像に近い評価である。

倒幕運動の激化と幕府の分裂

高時が出家した頃から、幕府を取り巻く情勢は急激に悪化する。朝廷では後醍醐天皇が天皇親政の復活を目指し、密かに倒幕計画を推し進めていた。1324年の正中の変、1331年の元弘の変と続く倒幕運動に対し、幕府は後醍醐天皇を隠岐に流罪とするなど強硬策をとった。

しかし、楠木正成ら新興の武士(悪党)によるゲリラ戦が畿内で展開されると、幕府軍は鎮圧に手こずり、その権威は失墜した。さらに、長崎高資の専横に対する不満から、幕府内部でも御家人の離反が相次いだ。1333年(元弘3年)、幕府の有力御家人であった足利高氏(尊氏)が京都で離反して六波羅探題を滅ぼし、事態は幕府の崩壊へと決定的に傾いた。

東勝寺合戦と鎌倉幕府の滅亡

足利高氏の挙兵と時を同じくして、関東でも新田義貞が挙兵し、鎌倉に向けて進軍を開始した。幕府軍は分倍河原の戦いなどで激しく抵抗したものの、次第に追い詰められ、新田軍の鎌倉乱入を許してしまう。

1333年5月22日、追い詰められた高時は、北条氏の菩提寺である東勝寺に退き、長崎円喜・高資父子や安達時顕ら一族郎党数百名とともに自刃した(東勝寺合戦)。この高時の死をもって、源頼朝の挙兵以来、約150年にわたって存続した鎌倉幕府は完全に滅亡した。彼の生涯は、時代の転換期において衰退する武家政権の重責を背負わされ、巨大な歴史の波に飲み込まれた悲劇の軌跡であったと言える。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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