以仁王

1180年、源頼政とともに平氏打倒の挙兵を企て、全国の源氏に令旨を発した皇子は誰か?
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★★★

以仁王 (もちひとおう)

1151〜1180

【概説】
平安時代末期の皇族で、後白河法皇の第三皇子。1180年(治承4年)に源頼政と結んで平氏打倒の令旨を発し、全国の源氏に挙兵を促した人物である。彼自身の挙兵は失敗に終わったが、この行動が5年に及ぶ治承・寿永の乱(源平合戦)の引き金となった。

不遇な前半生と平氏政権への反発

以仁王は、後白河天皇(のちの法皇)の第三皇子として生まれた。幼少期より学問や詩歌、書道に秀でた才人であったと伝えられている。しかし、父である後白河法皇の寵愛が平清盛の義妹・平滋子(建春門院)に移り、彼女が生んだ憲仁親王(のちの高倉天皇)が皇位を継承したため、以仁王は皇位継承の道から外されることとなった。さらに、本来であれば受けられるはずの親王宣下すら見送られ、長らく「王」の身分のまま据え置かれるという冷遇を受けた。

1179年(治承3年)の政変によって清盛が後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、平氏の独裁体制が決定的なものとなると、以仁王の所領も平氏によって没収されてしまう。自身の不遇な境遇に対する不満に加え、皇室の権威をもないがしろにする平氏の専横に対し、以仁王の怒りと危機感は頂点に達していた。

源頼政との結託と「令旨」の発出

1180年(治承4年)、平氏政権下で源氏として唯一中央政界で高位に上っていた源頼政が、以仁王に対して平氏打倒の挙兵を密かに持ちかけた。頼政もまた、平氏の独裁に対して強い不満を抱いていた武将であった。以仁王はこの誘いに応じ、自らを「最勝親王」と称して、諸国の源氏や大寺社(園城寺、興福寺など)に決起を促す令旨(りょうじ:皇太子や三后などの命令を伝える公文書)を発出した。

この令旨は、源頼政の叔父である源行家(新宮十郎)を伝令役として、東国の源頼朝や信濃の木曾義仲をはじめとする全国の反平氏勢力に届けられた。当時の武士たちにとって、朝廷(皇族)からの公的な命令である令旨は、平氏への反乱を正当化するための決定的な「大義名分」となるものであった。

挙兵の露見と宇治川での最期

しかし、諸国への令旨伝達の途中で計画は平氏方に漏洩してしまう。清盛は直ちに以仁王の逮捕と配流を命じた。身の危険を察知した以仁王は、女装して自邸を脱出し、平氏と対立関係にあった園城寺(三井寺)に逃げ込んだ。その後、頼政の軍勢も合流したが、園城寺だけでは平氏の大軍に対抗しきれないと判断し、より強力な僧兵を擁する南都(奈良)の興福寺を頼って移動を開始した。

その途上、宇治川を挟んで平知盛を大将とする平氏の追討軍と衝突した(宇治川の戦い)。頼政らは橋の板を外すなどして必死に防戦したが、圧倒的な兵力差の前に敗北し、頼政は平等院で自害した。以仁王はさらに南へ逃れようとしたものの、山城国相楽郡の光明山鳥居前(現在の京都府木津川市)で平氏の軍勢に追いつかれ、流れ矢に当たって討ち死にした。享年30であった。

歴史的意義:治承・寿永の乱の幕開け

以仁王自身の挙兵はわずか数週間で鎮圧され、軍事的にはあっけない失敗に終わった。しかし、彼が全国に放った「令旨」の効力は失われなかった。平氏の過酷な支配に不満を募らせていた諸国の武士や寺社勢力にとって、以仁王の死後もその令旨は「平氏追討」の錦の御旗として機能し続けたのである。

事実、この令旨を受け取った伊豆の源頼朝や信濃の木曾義仲らが相次いで挙兵し、時代は5年に及ぶ大規模な内乱である治承・寿永の乱(源平合戦)へと突入していく。その結果として平氏は滅亡し、鎌倉幕府の成立という武家政権の誕生へと繋がることになる。以仁王は自らの命と引き換えに、日本の歴史を古代から中世へと大きく転換させる最初の火種を投じた人物として、極めて重要な歴史的役割を果たしたと言える。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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