武蔵
7世紀後半〜明治初期
【概説】
東海道に属し、現在の東京都、埼玉県、および神奈川県の一部にまたがる令制国。治承・寿永の乱において、源頼朝が安房から鎌倉へと進軍する過程で秩父氏をはじめとする強力な武士団を臣従させ、鎌倉幕府創設の決定的な基盤となった地域である。
「武蔵武士団」の形成と地域的特質
武蔵国は、広大な関東平野の中央部に位置し、古くから馬産の適地として知られていた。平安時代中期以降、この豊かな土地を背景に、開発領主と呼ばれる在庁官人や軍事貴族が土着し、強力な武士団を形成していく。特に桓武平氏の流れを汲む秩父氏や、武蔵七党と総称される横山党・児玉党などの同族的武装集団が割拠した。彼らは、自らの開発地領有をめぐって相克を繰り返しながらも、強固な結束力と高い戦闘力を誇り、東国武士社会の主軸となっていった。
源頼朝の挙兵と武蔵武士団の帰趨
1180年(治承4年)、伊豆国で挙兵した源頼朝は、石橋山の戦いで平氏方の勢力に敗れ、海路で安房国へと逃れた。再起を期す頼朝は、房総半島から下総国を経て、鎌倉へ至るルートとして武蔵国の通過を選択する。当時、武蔵国は平氏の有力な地盤であり、目代が置かれて平氏の支配下にあった。しかし頼朝は、在庁官人である足立遠元らの手引きを受けつつ、秩父一族の有力者である畠山重忠や河越重頼らを懐柔し、臣従させることに成功した。この武蔵国の有力武士団が頼朝の傘下に加わったことは、東国における頼朝の軍事的優位を決定づけ、鎌倉入りと後の東国政権(鎌倉幕府)の樹立を確実なものとした。