鎌倉殿 (かまくらどの)
【概説】
鎌倉幕府の首長である源頼朝、およびその後継者である歴代将軍を指す武家社会における尊称。東国の武士団を統率する絶対的な主君としての性格を持ち、独自の主従制を支えた存在。後世の歴史学においては、鎌倉将軍そのものを指す言葉としても用いられる。
「鎌倉殿」の誕生と東国政権の確立
1180(治承4)年、源頼朝が伊豆で平氏打倒の挙兵をし、相模国の鎌倉を本拠地と定めたことに始まる。頼朝は1192(建久3)年に朝廷から征夷大将軍に任じられるが、それ以前の段階から、東国の武士(東国武士団)は頼朝を「鎌倉殿」と呼び、事実上の主君として仰いでいた。これは単なる朝廷の官職に基づく支配者ではなく、鎌倉という独自の政治拠点を支配する「東国の首長」としての実質的な権威を表す呼称であった。のちに源氏将軍が途絶えた後も、幕府の首長を表す言葉として定着し続けた。
御恩と奉公による主従関係の要
鎌倉殿の歴史的意義は、武士(御家人)との間に結ばれた御恩と奉公という緊密な主従関係の核心に位置したことにある。御家人たちは鎌倉殿に対して軍役や番役(京都大番役・鎌倉番役など)を果たす「奉公」を行い、鎌倉殿はその見返りとして、御家人の先祖伝来の所領を保障する「本領安堵」や、新たな領地(地頭職)を与える「新恩給与」という「御恩」を施した。この双方向的な主従制こそが鎌倉幕府の支配基盤であり、日本の封建制度を形成する基礎となった。
執権政治の展開と鎌倉殿の象徴化
源頼朝の死後、実質的な権力は頼朝の妻である北条政子の実家・北条氏へと移り、執権政治が開始された。源氏の正嗣が3代源実朝で途絶えると、北条氏は京都の摂関家から藤原(将軍)頼経を、のちには皇族から宗尊親王などを「鎌倉殿」として迎えた。これらは摂家将軍・親王将軍と呼ばれる。実権は北条氏が「執権」として掌握していたため、中期の鎌倉殿は実権を伴わない象徴的な存在(傀儡)へと変質していった。しかし、御家人を統率し、武家政権の正統性を担保するためには、「鎌倉殿」という権威が最後まで不可欠であり続けた。