平安時代後期
【概説】
白河上皇による院政の開始から、平氏政権の興亡を経て、鎌倉幕府が成立するまでの約100年間におよぶ時代区分。藤原氏による摂関政治が衰退し、天皇の直系尊属である上皇が国政の実権を握る「院政」が定着した。この過程で軍事力としての武士の存在感が急速に高まり、古代の貴族社会から中世の武家社会へと移行する一大転換期となった。
院政の展開と貴族社会の変容
平安時代後期は、1086年に白河上皇が幼少の堀河天皇を即位させ、自らは「院(上皇の居所)」において政務を執り行った院政の開始をもって本格的に幕を開ける。これに先立つ1068年、藤原氏を外戚としない後三条天皇の即位によって摂関政治は揺らぎ始めており、白河上皇はその強力な皇権を継承・拡大する形で独自の専制政治を確立した。
院政期においては、従来の律令官職体系から外れた「院近臣(いんのきんしん)」と呼ばれる中下級貴族や実務官僚が登用され、政界の新たな勢力となった。また、上皇は仏教への深い帰依を示して法勝寺をはじめとする六勝寺を建立し、知行国制や荘園の寄進を通じて莫大な財力を蓄積した。しかし、この独裁的な体制は従来の「公家社会」の秩序を崩壊させ、皇位継承や摂関家、大寺社を巻き込む新たな権力闘争を生み出す要因ともなった。
武士の成長と荘園公領制の確立
地方社会では、この時期に土地制度の構造改革が進んだ。自ら未開地を切り拓いた開発領主たちは、中央の権力者(上皇や摂関家など)に土地を寄進して不輸・不入の権を得る寄進地系荘園を拡大させた。国司が支配する公領と荘園が並立するこの「荘園公領制」の進展に伴い、開発領主たちは自らの土地を守るために武装化し、やがて武士と呼ばれる階層を形成していった。
彼らは有力な棟梁(源氏や平氏)のもとに結集し、武士団へと組織化されていく。東北地方での「前九年の役」「後三年の役」を経て源氏が東国に強固な基盤を築く一方、伊勢平氏(桓武平氏)は院の武力(北面の武士)として上皇に接近し、西国や瀬戸内海での海賊討伐を通じて中央政界への地歩を固めていった。
保元・平治の乱から平氏政権の誕生、そして中世へ
院政期に蓄積された矛盾は、12世紀半ばに武力衝突という形で爆発する。1156年の保元の乱、1159年の平治の乱において、天皇家や摂関家の内紛の調停に武士の軍事力が決定的な役割を果たした。これにより、政治における暴力装置としての武士の優位性が決定的となった。
これらの動乱を勝ち抜いた平清盛は、武士として初めて太政大臣に就任し、一門で高官を独占する平氏政権を樹立した。清盛は日宋貿易を推進し、大輪田泊(現在の神戸港)を改築するなど、経済的な先進性を発揮したが、その強引な専制政治は後白河法皇や旧勢力の反発を招いた。やがて、源頼朝らによる「治承・寿永の乱(源平合戦)」が勃発し、1185年の壇ノ浦の戦いによって平氏は滅亡する。この平氏の台頭と没落は、貴族支配の終焉と、本格的な武家政権である鎌倉幕府の誕生(中世の開幕)を告げる前奏曲であった。