軍事と造作

桓武天皇の時代の国家財政を圧迫した2大事業である、「蝦夷の平定」と「新都の建設」をまとめて当時の言葉で何と呼んだか?
カテゴリ:
重要度
★★★

軍事と造作 (ぐんじとぞうさく)

8世紀末〜9世紀初頭

【概説】
桓武天皇の時代に推し進められた、国家財政と民衆の生活を大きく圧迫した二大事業のこと。具体的には、東北地方の平定を目指した「蝦夷征討(軍事)」と、長岡京・平安京などの「新都造営(造作)」を指す。

桓武天皇の王権強化と二大事業

8世紀末、天武天皇系から天智天皇系へと皇統が移行して新たに即位した桓武天皇は、律令国家の再建と天皇の権威強化を目指し、二つの巨大プロジェクトを強力に推し進めた。それが「軍事」と「造作」である。

「造作」とは、平城京の旧仏教勢力や肥大化した貴族層の政治的干渉から脱却するための新都造営である。784年(延暦3年)の長岡京遷都に始まり、藤原種継暗殺事件や早良親王の怨霊騒動などの不和を経て、794年(延暦13年)にはさらなる新都である平安京への遷都が断行された。宮殿や官衙(役所)、道路などの大規模な土木工事は、数十年にわたって絶え間なく続けられた。

一方の「軍事」とは、国家の支配領域を北へと拡大するための蝦夷征討である。8世紀後半以降、東北地方では律令国家の支配に抵抗する蝦夷の反乱が激化しており、桓武天皇はこれを武力で完全に鎮圧しようとした。紀古佐美などを派遣した初期の遠征は多大な犠牲を払い失敗に終わったが、のちに坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、802年(延暦21年)には蝦夷の族長である阿弖流為(アテルイ)らを降伏させることに成功する。また、胆沢城や志波城などの城柵を次々と築き、東北経営を大きく前進させた。

民衆への重圧と律令体制の危機

これら二大事業は、天皇の権威を内外に示す歴史的偉業であった半面、国家財政を著しく枯渇させた。さらに深刻だったのは、その莫大な代償がすべて農民層の負担としてのしかかったことである。

新都の造営には、全国から集められた木材などの建築資材と、雑徭(ぞうよう)などの労役で駆り出された大量の役夫が必要とされた。また、長期化する蝦夷征討には、軍団から徴発された農民兵士の動員や、最前線の兵站を維持するための過酷な兵糧運搬が不可欠であった。当時の農民はすでに租・庸・調などの重い税負担に苦しんでいたが、この「軍事と造作」による二重苦が重なったことで、その生活は限界に達した。

結果として、重税と労役から逃れるため、口分田を捨てて他国へ逃亡する「浮浪・逃亡」や、戸籍の性別などを偽って税を逃れる「偽籍」が全国的に激増した。班田収授法に基づく律令制の根幹であった戸籍・計帳のシステムは機能不全に陥り、国家体制そのものが大きく揺らぐ事態となったのである。

徳政相論による事業停止と歴史的意義

農民の疲弊と社会不安が頂点に達していた805年(延暦24年)、晩年の桓武天皇は側近の公卿たちに今後の政治のあり方について意見を求めた。これが世にいう「徳政相論(天下の徳政)」である。

この論争において、参議の藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)は「天下の民が苦しむところは軍事と造作である。この二事をやめれば、天下の民は安らぐであろう」と直言し、事業の即時停止を強く主張した。これに対し、平安京造営の責任者であり天皇の側近中の側近であった菅野真道(すがののまみち)は猛烈に反論したが、桓武天皇は緒嗣の意見を採用し、軍事と造作の打ち切りを決断した。

この英断により、平安京の造営は右京の整備が未完成のまま中止され、東北地方における大規模な軍事行動も幕を閉じた。「軍事と造作」の停止は、桓武天皇が自らの治世の象徴であった政策の限界を認め、民生の安定へと舵を切った歴史的転換点として極めて重要である。そして、これを契機として、強力な中央集権を目指した律令国家は、直接的な民衆支配を諦め、国司に徴税権限を委ねる請負的支配(王朝国家体制)へと徐々に変質していくこととなる。

桓武天皇 (人物叢書 新装版)

古代日本の転換期を駆け抜けた改革者の実像と、即位から遷都に至る苦闘の軌跡を克明に辿る歴史学の金字塔。

学習まんが 少年少女日本の歴史4 平安京の人びと  ―平安時代前期―

華やかな平安貴族社会の幕開けを、平易な漫画形式で当時の生活文化や政治情勢と共に学べる入門的な一冊。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 1937年、東京帝国大学の経済学教授が日本の大陸政策を批判して右翼勢力から攻撃され、辞職を余儀なくされた思想弾圧事件を何というか?
Q. 江戸にあった、幕府公認の巨大な青物(野菜・果物)の卸売市場はどこか。
Q. 信仰心を深めるため、あるいは祈願のために、定められた各地の霊場(札所)を順に巡り歩く旅のことを何というか?