関白
【概説】
天皇が成人したあとも、天皇を補佐して国政のすべてを統轄し、実権を握った最高の官職。幼少や女性の天皇に代わって政務を執る摂政に対し、関白は成人した天皇を補佐する役割を担った。平安時代に藤原北家によって独占され、中世以降も形を変えながら幕末の王政復古まで存続した。
関白の成立と「阿衡の紛議」
関白は、大宝律令などの基本法典には規定されていない令外官(りょうげのかん)である。884年、光孝天皇が即位に際して太政大臣の藤原基経に国政を委任したことが実質的な関白の始まりとされる。その後、887(仁和3)年に即位した宇多天皇が基経に対し「万機はすべて太政大臣に関白し、しかるのちに奏下すべし」との詔を下したことで、正式に「関白」という名称と職権が成立した。
しかし、この際に起草された詔の文言を巡り、基経が政務をボイコットする「阿衡の紛議(あこうのふんぎ)」という政治問題が発生する。宇多天皇は最終的に基経に屈して詔を改めさせられ、この事件を通じて関白の権力が天皇を凌駕するものであることが明白となった。
摂政との違いと「摂関政治」の確立
「摂政」が天皇の幼少期や女性天皇の政務を代行するのに対し、「関白」は天皇が成人したのちに、その後見役・補佐役として国政を統轄する職である。平安時代中期に入ると、藤原北家は娘を天皇の妃(中宮・皇后)とし、生まれた皇子を天皇に立てて外祖父として摂政となり、天皇の成人後は関白に横滑りするという手法で権力を独占した。
これが「摂関政治」と呼ばれる政治形態であり、天皇の外戚として朝廷の人事や政務をほしいままにした。とくに11世紀前半の藤原道長や、その後を継いで50年近く関白を務めた藤原頼通の時代に、その権力は最盛期を迎えた。
中世以降の変容と五摂家の成立
平安時代末期に白河上皇による院政が始まり、さらに鎌倉幕府が成立して武家が台頭すると、関白の政治的実権は次第に失われ、朝廷内における名誉職的な地位へと変質していった。鎌倉時代に入ると、藤原北家の嫡流は近衛・九条・二条・一条・鷹司の「五摂家」に分裂し、以後はこの五つの家の中から持ち回りで摂政・関白が任じられる制度が定着した。
武家関白制と制度の終焉
本来、関白は藤原氏の氏長者が就任する公家の最高職であったが、安土桃山時代に歴史的な例外が生じた。1585(天正13)年、豊臣秀吉が近衛前久の猶子となる形で関白に就任し、朝廷の権威を利用して全国支配を進める「武家関白制」を創始したのである。秀吉はその後、関白の位を甥の豊臣秀次へ譲り、自らは「太閤(前関白の尊称)」として実権を握り続けた。
しかし、江戸幕府が成立すると「禁中並公家諸法度」によって関白の任免権は幕府の厳格な統制下に置かれ、再び五摂家による名目的な職へと戻った。その後、幕末の1867(慶応3)年に発せられた王政復古の大号令によって、摂政や幕府などとともに正式に廃止され、平安時代から約1000年にわたって続いた歴史に幕を閉じた。