鳩山由紀夫内閣
【概説】
2009年(平成21年)の第45回衆議院議員総選挙で大勝し、成立した民主党中心の連立内閣。1955年の保守合同以降、初めて選挙による本格的な政権交代を果たした歴史的意義を持つ。しかし、「政治主導」を掲げた政策運営や普天間基地移設問題で行き詰まり、わずか約9ヶ月の短命政権に終わった。
歴史的な政権交代の実現
2009年(平成21年)8月に実施された第45回衆議院議員総選挙において、鳩山由紀夫代表率いる民主党は「政権交代」を強力なスローガンに掲げ、衆議院定数480のうち308議席を獲得するという歴史的な圧勝を収めた。同年9月、民主党に社会民主党(福島瑞穂党首)と国民新党(亀井静香代表)を加えた3党連立による鳩山由紀夫内閣が発足した。
1955年(昭和30年)の保守合同によって成立した自民党中心の「55年体制」以降、非自民・非共産連立政権であった細川護熙内閣(1993年)という一時的な例外を除けば、選挙を通じて野党が第一党となり政権を単独で奪取する「本格的な政権交代」は日本の憲政史上初めての出来事であった。長期にわたる自公政権の閉塞感の打破を期待した国民からの支持は厚く、発足直後の内閣支持率は70%を超える高水準を記録した。
「政治主導」の断行と「コンクリートから人へ」
鳩山内閣は、自民党政権下で長らく構築されてきた官僚依存の政治構造からの脱却を目指し、「政治主導」「国民主導」を強く打ち出した。事務次官等会議の廃止や、政策決定のイニシアティブを内閣に集中させるための「国家戦略室」や「行政刷新会議」の新設などがその象徴である。特に行政刷新会議が実施した「事業仕分け」は、国家予算の無駄遣いを公開の場で削減する画期的な手法として、国民の大きな耳目を集めた。
また、政策の基本理念として「コンクリートから人へ」を掲げ、従来の公共事業偏重から、家計への直接支援へと予算配分を大きく転換させた。子ども手当の創設、公立高校の授業料実質無償化、農業者戸別所得補償制度の導入などは、この理念を具現化した代表的な政策である。しかし、これらの財源確保策として掲げていた「予算の組み替え」は想定通りに進まず、のちの財政運営に課題を残すことにもなった。
普天間基地移設問題と外交の迷走
内閣の命取りとなったのが、沖縄県の米軍普天間飛行場移設問題である。鳩山首相は総選挙前から移設先を「最低でも県外」と発言し、基地負担の軽減を望む沖縄県民の期待を大きく高めていた。また、外交面では「対等な日米関係」や「東アジア共同体構想」を提唱し、従来の対米追従外交の見直しを示唆した。
しかし、政権発足後にアメリカ政府と行った移設交渉は極めて難航し、政府内での代替案の策定も迷走を極めた。最終的に2010年5月、自公政権時代の日米合意である名護市辺野古への移設を事実上容認せざるを得なくなり、公約は完全に破綻した。この結果、県外・国外移設を強硬に主張していた社会民主党が連立政権から離脱し、鳩山首相の政治的求心力は急激に低下したばかりか、日米関係の動揺と不信を招くこととなった。
短命政権の終焉と歴史的評価
普天間問題での致命的な迷走に加え、鳩山首相自身の偽装献金問題や、民主党幹事長であった小沢一郎の政治資金問題(陸山会事件)が「政治とカネ」の問題としてクローズアップされ、国民の激しい失望を買った。内閣支持率は発足時の高水準から20%台にまで急速に下落し、政権運営は完全に行き詰まりを見せた。
2010年(平成22年)6月、鳩山首相は事態の責任をとる形で退陣を表明し、在任期間わずか266日で総辞職した。鳩山由紀夫内閣は、日本に本格的な二大政党制の到来を予感させたエポックメイキングな政権であった。しかし、理念を先行させる一方で実務能力や危機管理能力に欠け、官僚組織との過度な軋轢を生んだことで、政策の実行力に深刻な限界を露呈した。この鳩山政権の失敗は、続く菅直人内閣、野田佳彦内閣といった民主党政権の苦境の端緒となり、最終的に2012年末の自民党への政権復帰を招く決定的な要因となったのである。