野村吉三郎 (のむらきちさぶろう)
【概説】
昭和期の海軍軍人(海軍大将)、外交官、政治家。太平洋戦争開戦直前の日米交渉において日本の駐米大使を務め、アメリカのハル国務長官との間で戦争回避に向けた極めて困難な外交交渉に奔走した人物。
海軍でのキャリアと外交界への転身
野村吉三郎は和歌山県に生まれ、海軍兵学校を卒業後、海軍軍人としてのエリートコースを歩んだ。第一次世界大戦中には駐米武官を務め、のちのアメリカ大統領フランクリン・ローズヴェルト(当時は海軍次官)ら米国政界の要人と親交を結んだ。この時の人脈と経験が、後に彼が対米交渉の適任者として白羽の矢を立てられる背景となった。
1932年の第一次上海事変の際には上海派遣艦隊司令長官を務めたが、天長節祝賀式の最中に朝鮮人独立運動家・尹奉吉による爆弾テロ(虹口公園爆弾事件)に遭い、右目を失明する重傷を負った。退役後は学習院長を務め、1939年の阿部信行内閣では外務大臣として入閣し、日米通商航海条約の失効に伴う対米関係の悪化を食い止めるべく外交交渉にあたった。
日米交渉の苦闘と「遅れた最後通牒」
1941年2月、第二次近衛文麿内閣のもとで駐米大使に任命された野村は、緊迫化する日米関係の修復という極めて重い任務を課せられた。野村はアメリカ国務長官コーデル・ハルと数十回に及ぶ非公式会談を重ね、日米妥協の道を探った。しかし、日本側の南部仏印進駐や日独伊三国同盟の維持という方針と、アメリカ側の中国からの撤兵要求(のちのハル・ノート)との溝は容易に埋まらなかった。
同年11月には来栖三郎特命大使が補佐として送られたが、事態は好転せず、最終的に日本政府は開戦を決意する。12月8日(現地時間7日)、野村らは日本政府からの交渉打ち切り通告(対米最後通牒)をハル国務長官に手渡したが、大使館内での解読と作成の遅れから、真珠湾攻撃の開始後になってしまうという決定的な失態を演じた。これがアメリカ側に「だまし討ち」という格好のプロパガンダ口実を与える結果となり、野村自身も深い悔恨を残すこととなった。
戦後の再評価と防衛問題への関与
戦後、野村は公職追放となったが、追放解除後は日米友好の推進や日本の再軍備論を牽引する存在となった。1954年には参議院議員に当選し、防衛問題の専門家として活動した。
野村の日米交渉における姿勢は、時に日本政府・軍部との意思疎通の不足や、外交技術の未熟さ(暗号解読の遅延対応など)から批判的に見られることもあるが、個人の信条として日米戦の回避に命がけで挑んだ誠実な愛国者であったという評価もなされている。激動の昭和史における対米外交の象徴的実務者として、彼の足跡は極めて重要である。