コーデル・ハル
【概説】
フランクリン・ローズヴェルト政権下で史上最長となる約11年間にわたりアメリカの国務長官を務めた政治家。日米交渉の最終局面において、日本に対して極めて強硬な妥協なき提案を突きつけ、太平洋戦争開戦の決定的な要因を作った外交官である。
ローズヴェルト政権下の外交方針と「ハル四原則」
コーデル・ハルは、1933年に発足した民主党のフランクリン・ローズヴェルト政権において国務長官に就任した。彼は自由貿易の推進による世界平和を信奉し、ラテンアメリカ諸国に対しては内政干渉を控える「善隣外交」を展開した。しかし、東アジアにおける日本の軍事進出に対しては、既存の国際秩序や条約を揺るがすものとして強い警戒感を抱いていた。
1941年4月、決裂の危機にあった日米関係を打開するため、ワシントンで日米交渉が開始される。ハルは、アメリカ側の原則的立場として、のちに「ハル四原則」と呼ばれる外交方針を提示した。それは「すべての国家の領土保全と主権の尊重」「他国の内政への不干渉」「通商無差別の原則を含む国際経済協力の支持」「太平洋における現状維持」の4項目からなり、これらを受け入れない限り、日本との一切の妥協に応じないという頑なな態度を貫いた。
日米交渉の破綻と「ハル・ノート」の衝撃
1941年7月、日本軍が南部仏領インドシナ(仏印)に進駐すると、ハルらアメリカ指導部は激怒し、在米日本資産の凍結や対日石油輸出の全面禁止という過酷な経済制裁を断行した。これによりエネルギー資源を遮断された日本は窮地に陥り、外交交渉による解決か、それとも開戦かの選択を迫られることとなった。
日本側は駐米大使の野村吉三郎や特使の来栖三郎を通じて妥協案を模索し、暫定的な協定を結ぶことを提案した。しかし、中国の蔣介石政権やイギリスからの強い反対、また日本側の暗号解読による軍事行動の察知もあり、ハルは妥協を断念。同年11月26日、日本側に事実上の最後通牒となる「ハル・ノート」(ハル覚書)を提示した。
この書案には、中国(満洲を含む)および仏印からの日本軍の全面撤兵、重慶の国民政府(蔣介石政権)以外の否認、日独伊三国同盟の実質的な廃棄など、日本側にとって到底受け入れられない過酷な条件が並んでいた。日本政府および軍部はこれを「アメリカからの宣戦布告なき最後通牒」と受け止め、平和交渉の継続を断念し、12月8日の真珠湾攻撃、すなわち対米開戦へと踏み切ることとなった。
戦後秩序の構想と「国連の父」としての功績
太平洋戦争勃発後、ハルは戦時外交を指揮する一方で、二度とこのような大戦を引き起こさないための戦後世界秩序の構築に尽力した。戦前の国際連盟の失敗を教訓とし、アメリカを含む主要大国が主導する新たな平和維持組織の創設を構想。これがのちの国際連合(国連)の青写真となった。
1944年、ハルは健康上の理由から国務長官を辞任したが、翌1945年に国際連合が正式に発足すると、その多大な貢献が評価されてノーベル平和賞を受賞した。ローズヴェルト大統領からは「国連の父(Father of the United Nations)」と称えられ、その外交的遺産は冷戦期から現代に至る国際秩序の基盤として受け継がれている。