ひめゆり学徒隊 (ひめゆりがくとたい)
【概説】
太平洋戦争末期の沖縄戦において、陸軍病院の看護要員として動員され、過酷な戦場の中で多くの犠牲者を出した女子生徒・教師の集団。沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の教員・生徒たちによって構成された、沖縄戦における学徒動員の象徴的な存在である。
動員の背景と「ひめゆり」の由来
太平洋戦争末期の1944(昭和19)年、日米の戦局が緊迫化するなか、日本軍(第32軍)は沖縄防衛のために中等学校以上の生徒を軍に動員する計画を進めた。男子生徒が「鉄血勤皇隊」や「通信隊」などの戦闘支援部隊に組み込まれたのに対し、女子生徒は「看護要員」としての動員が義務づけられた。
そのなかで、沖縄県立第一高等女学校(一高女)と沖縄師範学校女子部の生徒222名および引率教師18名の計240名によって編成されたのが、のちに「ひめゆり学徒隊」と呼ばれる部隊である。「ひめゆり」の名は、両校の校友会誌の名称である「乙姫(おとひめ)」と「白百合(しらゆり)」を組み合わせた言葉に由来するが、これは戦後に広く定着した呼称であり、戦時中の彼女たちは単に軍の看護婦見習いとして扱われていた。
南風原陸軍病院での活動と戦局の悪化
1945年3月23日、米軍の激しい空襲と艦砲射撃が開始されるなか、学徒隊はただちに南風原(はえばる)にある沖縄陸軍病院へと招集された。この病院は地下に掘られたいくつかの横穴(壕)からなる劣悪な施設であり、彼女たちはここで押し寄せる大量の負傷兵の看護にあたった。動員された当初は「数日で戦争は終わる」と知らされていたが、戦況は悪化の一途をたどった。
学徒たちは、不衛生極まりない暗闇の壕内で、麻酔なしで行われる四肢切断手術の介助、排泄物の処理、水汲み、食糧運搬、さらには死亡した兵士の埋葬作業といった過酷な任務を不眠不休でこなした。米軍の圧倒的な物量と激しい攻撃により、やがて首里の司令部が放棄されると、陸軍病院もまた南部へと撤退を余儀なくされ、戦場はさらに混沌とした状況へと陥っていった。
解散命令と南部撤退における悲劇
1945年6月18日、米軍が背後にまで迫る極限状態のなか、軍は学徒隊に対して突如として「解散命令」を下した。防空壕の外は激しい砲火が飛び交う戦場であり、この命令は実質的に「各自で生き延びよ」という放棄に等しいものであった。軍の庇護を失った生徒たちは、米軍の包囲網のなかを逃げ惑うこととなった。
解散命令の直後、伊原第一外科壕をはじめとする各地の壕では、米軍によるガス弾や黄燐弾などの攻撃を受け、あるいは絶望による手留弾での集団自決によって、短期間のうちに極めて多くの命が失われた。また、命からがら逃げ延びた荒崎海岸などでも、逃げ場を失った生徒たちが次々と犠牲になった。最終的に、動員された240名のうち過半数を超える136名が戦死した。この悲劇は、戦後、戦火に巻き込まれた一般市民の苦難と、軍国主義教育による若者の犠牲を象徴する出来事として、現在も語り継がれている。