民主党
【概説】
1947年に芦田均らを中心とする旧日本進歩党系の一部などが結成した中道・保守政党。
日本社会党、国民協同党とともに片山哲内閣・芦田均内閣で与党となり、戦後復興期の政権運営を担った。
吉田茂率いる日本自由党とは対立する「修正資本主義」を掲げ、後の日本民主党および自由民主党結成へと連なる重要な源流の一つとなった。
結成の背景と「修正資本主義」の提唱
戦後間もない1945年11月に結成された日本進歩党は、戦前の立憲民政党などを源流とする保守政党であったが、所属議員の多くが大政翼賛会の推薦議員であったため、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による公職追放の直撃を受け、たちまち党勢が衰退した。この行き詰まりを打破するため、進歩党の若手・中堅議員や、日本自由党を離党した芦田均らが中心となり、1947年(昭和22年)3月に結成されたのが民主党である。
民主党の大きな特徴は、吉田茂率いる日本自由党が自由主義経済(レッセ・フェール)を強く主張していたのに対し、国家による一定の経済統制や社会福祉政策を容認する「修正資本主義」を党の基本理念として掲げた点にある。これは、戦後の深刻な経済危機や労働運動の激化に対応するためには、純粋な資本主義ではなく、社会主義的な要素を部分的に取り入れた中道的な政策が不可欠であるという認識に基づくものであった。
中道連立政権の成立と片山・芦田内閣
結成直後の1947年4月に行われた第23回衆議院議員総選挙(新憲法下で初の総選挙)において、民主党は第3党となった。第1党に躍進した日本社会党、第4党の国民協同党(三木武夫ら)とともに、政策協定を結んで連立政権を樹立することに合意し、社会党委員長の片山哲を首相とする片山内閣が成立した。民主党からは芦田均が副総理兼外務大臣として入閣し、連立政権の要の役割を果たした。
しかし、イデオロギーの異なる社会党(特に左派)との連立運営は困難を極めた。重要法案であった炭鉱国家管理法案の審議などを巡って閣内不一致や社会党左派の造反が相次ぎ、片山内閣は1948年(昭和23年)2月に崩壊する。その後を受けて、同年3月に民主党総裁の芦田均を首相とし、引き続き社会党・国民協同党との連立による芦田内閣が誕生した。中道・保守政党である民主党が政権の主導権を握ったものの、激しいインフレーションや労働争議への対応に苦慮することとなる。
昭電疑獄による瓦解と党内分裂
芦田内閣の命運を決定づけたのが、1948年に発覚した戦後最大級の疑獄事件である昭和電工事件(昭電疑獄)である。復興金融金庫からの融資を巡り、昭和電工から政官界へ多額の賄賂がばらまかれたこの事件は、民主党政権を直撃した。社会党の西尾末広副総理の逮捕に加え、芦田首相自身にも疑惑の目が向けられ、同年10月に芦田内閣は総辞職を余儀なくされた。後に芦田本人が逮捕される(のちに無罪判決)という事態は、民主党の道徳的権威を失墜させ、党勢は一気に衰退した。
芦田内閣崩壊後、政権は吉田茂率いる第2次吉田内閣(民主自由党)へと移行した。下野した民主党内では、吉田政権に接近して保守合同を目指す「連立派」と、野党として中道路線を維持しようとする「野党派」との間で激しい内部対立が生じた。1949年の総選挙で惨敗を喫すると、連立派の一部が離党して吉田の民主自由党に合流するなど、党の分裂・解体が進んだ。
解党と自由民主党への系譜
党勢の立て直しを図るため、民主党(野党派)は1950年(昭和25年)4月、国民協同党などと合同して国民民主党を結成し、民主党は発展的解消を遂げた。これにより「民主党」という名称は一旦姿を消すことになる。
しかし、民主党が掲げた反吉田路線の保守・中道勢力という系譜はその後も脈々と受け継がれた。国民民主党は後に改進党となり、1954年には公職追放から復帰した鳩山一郎らと合流して日本民主党を結成した。そして1955年(昭和30年)、日本民主党は吉田茂の流れを汲む自由党と合同(保守合同)を果たし、自由民主党が誕生する。1947年に結成された民主党は短命に終わったものの、戦後日本政治における「保守本流」に対抗する「保守傍流」の形成に決定的な役割を果たしたのである。