三・一五事件 (さん・いちごじけん)
【概説】
1928年(昭和3年)、第1回普通選挙の直後に田中義一内閣が全国の日本共産党員およびその同調者を一斉に検挙した弾圧事件。労働運動や社会主義運動に対する治安維持法の大規模な初適用事例となった。
背景:第1回普通選挙と無産政党の躍進
1925年(大正14年)に制定された普通選挙法に基づき、1928年2月に日本で初めてとなる男子普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)が実施された。この選挙において、労働者や農民を支持基盤とする無産政党(労働農民党、社会民衆党、日本労農党など)が合計8議席を獲得するという、政府にとって想定外の躍進を見せた。
政権を担っていた立憲政友会の田中義一内閣は、とくに急進的な労働農民党の背後に、当時非合法であった日本共産党(第二次共産党)の指導と暗躍があることを察知し、深刻な危機感を抱いた。政府は、国体変革や私有財産制度の否認を掲げる共産主義運動が、合法的な選挙を通じて社会的影響力を拡大することを断じて容認できず、徹底的な弾圧への準備を進めた。
事件の経過と一斉検挙の実施
選挙から約1ヶ月後の1928年3月15日早朝、政府は全国の警察網を動員し、日本共産党員や労働農民党などの関係先に対する一斉捜索と検挙を断行した。全国で約1,600名が検挙され、そのうち約500名が治安維持法違反として起訴されるという大規模な弾圧となった。
さらに政府は、この検挙事件の全容を約1ヶ月後に公表するとともに、共産党の隠れ蓑(外郭団体)とみなした労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の3団体に対し、治安警察法に基づく結社禁止命令を下して強制解散させた。これにより、戦前の日本の左翼運動は合法・非合法を問わず深刻な打撃を受けることとなった。
治安維持法の改悪と弾圧体制の強化
三・一五事件を契機として、田中義一内閣は思想弾圧の法的・制度的基盤をさらに強化した。1928年6月には、議会の承認を経ない緊急勅令という形で治安維持法を改正した(治安維持法改悪)。これにより、国体変革を目的とする結社の主謀者に対する最高刑が「懲役10年」から「死刑または無期」へと引き上げられ、さらに結社の目的を遂行するための行為を罰する「目的遂行罪」が新設され、弾圧の対象が末端の同調者にも拡大された。
また、同年7月には、従来は主要府県にのみ置かれていた特別高等警察(特高)を全国のすべての道府県警察部に設置し、思想統制と監視のネットワークを全国的規模で完成させた。さらに、思想犯を専門に扱う「思想検事」の制度も整えられ、国家による思想取り締まりはかつてない厳しさを持つようになった。
歴史的意義と同時代への影響
三・一五事件は、戦前の日本において国家権力がマルクス主義・共産主義陣営に対して牙を剥いた最大の転換点であり、翌1929年(昭和4年)に起こる四・一六事件と連なることで、日本共産党を事実上の壊滅状態に追い込んだ。この後、獄中の共産党幹部である佐野学や鍋山貞親らによる「転向」声明などが相次ぎ、左翼運動は急速に衰退していく。
また、プロレタリア文学の代表的な作家である小林多喜二は、この事件を題材とした小説『一九二八年三月十五日』を執筆し、特高警察による凄惨な拷問の実態を告発した。しかし、言論や思想の自由が奪われていく流れを食い止めることはできず、反戦・反体制の声を強権的に封じ込めた日本は、やがて満州事変から日中戦争へと至る軍国主義の時代へと突き進んでいくこととなる。