挙国一致内閣
【概説】
特定の政党を基盤とせず、軍部、官僚、主要政党などの諸勢力から幅広く閣僚を登用し、国家的な危機に対応するために組織された内閣の形態。1932年の五・一五事件によって「憲政の常道」と呼ばれた政党内閣期が崩壊した後に本格化し、第二次世界大戦終結まで続いた。議会第一党の党首が首相となって政権を担当する政党政治に代わり、軍部の政治的台頭とファシズムへの傾斜を加速させる契機となった。
「憲政の常道」の崩壊と挙国一致の成立
大正デモクラシー期から昭和初期にかけて、日本の政治は立憲政友会と立憲民政党の二大政党が交互に政権を担当する「憲政の常道」が定着していた。しかし、1930年のロンドン海軍軍縮条約締結をめぐる統帥権干犯問題や、世界恐慌下での経済不安、そして1931年の満州事変勃発などにより、既成政党に対する国民の不満や軍部の反発が急速に高まっていった。
こうした状況下、1932年5月15日に海軍青年将校らによる犬養毅首相暗殺事件(五・一五事件)が発生する。これにより政党内閣の維持が困難となった。元老の西園寺公望は、政党内閣の継続を望みつつも、政党を極端に嫌悪する陸軍が政党内閣に対して陸相を出すことを拒絶する姿勢を示したため、政権維持のために妥協を余儀なくされた。西園寺は軍部の暴発を抑えつつ、憲政の命脈を保つため、温厚で軍内・政界双方に人望のあった海軍大将の斎藤実を次期首相に推挙した。ここに、特定の政党に偏らない「挙国一致内閣」が誕生した。
政党の変質と軍部の政治的台頭
斎藤実内閣は、立憲政友会と立憲民政党の両既成政党から閣僚(挙党入閣)を迎え、官僚や軍部をも網羅した連立内閣の形態をとった。これにより、政党は閣外あるいは連立の一翼として政権に関与し続けたものの、首相の座を失ったことで、主体的に国政を牽引する力を喪失した。
続く岡田啓介内閣(同じく海軍大将)も挙国一致の枠組みを維持したが、政党の力はさらに低下した。この時期、陸軍内部の統制派と皇道派の対立が激化し、1936年には二・二六事件が勃発する。事件後の広田弘毅内閣では、軍部の圧力により軍部大臣現役武官制が復活した。これにより、陸軍・海軍が大臣を推薦しなければ内閣を組織・維持できない仕組みとなり、挙国一致の名のもとで軍部が国政の主導権を完全に握る構造が完成した。
挙国一致体制の歴史的帰結
1937年に日中戦争が勃発すると、挙国一致は単なる内閣の構成原理に留まらず、国家全体の統制・総動員体制の構築へと進展した。近衛文麿内閣のもとで、すべての政党は解散へ追い込まれ、1940年には一国一党のファシズム的体制である大政翼賛会が結成された。
太平洋戦争期の東条英機内閣は、軍・官僚・翼賛議会が一体となった極端な「挙国一致」の極致であり、国民生活のあらゆる分野を戦争遂行のために動員する総力戦体制を維持した。元々はテロやクーデターなどの暴力を避けるための「妥協の産物」として導入された挙国一致内閣であったが、結果として議会制民主主義(政党政治)の機能を著しく麻痺させ、軍部の独走を抑えるブレーキを失わせる決定的な契機となったのである。