日満議定書

1932年9月、斎藤実内閣が満州国を独立国家として正式に承認し、同国と結んだ条約は何か?
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【参考リンク】
日満議定書(Wikipedia)

日満議定書 (にちまんぎていしょ)

1932年

【概説】
1932年(昭和7年)、斎藤実内閣が満州国を正式に承認し、同国と結んだ条約。日本の満州における既得権益の確認や、日満両国による共同防衛などを規定し、満州国を日本の傀儡国家として固定化する決定的な役割を果たした。

満州国の建国と国内情勢の緊迫

1931年(昭和6年)の柳条湖事件に始まる満州事変によって、関東軍は瞬く間に満州一帯を武力占領した。翌1932年3月、関東軍は清朝最後の皇帝であった溥儀を執政に迎え、「五族協和」「王道楽土」を掲げる新国家満州国の建国を宣言した。しかし、当時の犬養毅内閣は国際社会の反発や国際連盟との摩擦を懸念し、満州国の正式な承認には慎重な姿勢を崩さなかった。こうした政府の軟弱外交に対する軍部や右翼の不満は頂点に達し、同年5月に発生した五・一五事件によって犬養首相が暗殺されるという事態を招いた。

斎藤実内閣の成立と議定書の調印

五・一五事件後に組閣された海軍出身の斎藤実内閣(挙国一致内閣)は、政党政治が後退する中で軍部の強い意向を無視できず、満州国承認に向けて大きく舵を切った。政府は直ちに満州国の承認手続きを進め、1932年9月15日、新京(現在の長春)において日本政府を代表する武藤信義(関東軍司令官兼特命全権大使)と満州国国務総理の鄭孝胥(ていこうしょ)との間で日満議定書が調印された。これにより、日本は世界で初めて満州国を独立国家として正式に承認したのである。

議定書の内容と実質的な傀儡化

日満議定書は非常に簡潔な条文であったが、その内容は日本の満州支配を法的に確定させる画期的なものであった。主な取り決めは以下の二点に集約される。第一に、満州国建国以前に中華民国が日本との間に結んでいた条約に基づく日本の既得権益をすべて承認し、尊重すること。第二に、日満両国の安全保障を共同で担うという名目(日満共同防衛)のもと、日本軍(関東軍)の満州駐留を無条件で認めることである。この議定書によって、満州国は名目上は独立国家でありながら、実態は関東軍の強力な軍事力に依存し、日本の政治的・経済的な支配下にある傀儡(かいらい)国家であることが制度上固定化された。

国際連盟の反発と日本の国際的孤立

日満議定書の調印は、国際社会に対して意図的なタイミングで行われた。当時、国際連盟が派遣したリットン調査団が満州事変に関する現地調査を終え、報告書を提出する直前であった。日本政府は、調査団が満州国を否認する前に議定書を結ぶことで、満州国の存在を既成事実化しようと目論んだのである。しかし、この強硬な姿勢はかえって国際社会の激しい非難を浴びることとなった。10月に公表されたリットン報告書は満州国の独立を認めず、翌1933年2月の国際連盟臨時総会では、この報告書に基づく満州国不承認の勧告案が圧倒的多数で可決された。これを受けて日本代表の松岡洋右は議場を退場し、同年3月、日本は国際連盟からの脱退を正式に通告するに至る。日満議定書は、日本が国際協調路線に背を向け、孤立への道を歩み始める決定的な歴史の転換点となった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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