日独防共協定 (にちどくぼうきょうきょうてい)
【概説】
1936年11月に日本とナチス・ドイツの間で締結された、国際共産主義運動(コミンテルン)に対抗するための防衛・政治協定。国際社会で孤立を深めていた両国が接近する契機となり、のちの日独伊三国同盟へと発展する枢軸陣営形成の出発点となった外交条約である。
締結の背景:日独両国の国際的孤立と対ソ警戒感
1930年代前半、日本とドイツはともに国際社会における深刻な孤立状態に直面していた。日本は1931年の満州事変以降、満州国の建国をめぐって国際連盟と対立し、1933年に連盟を脱退した。一方のドイツでも、1933年に政権を握ったヒトラー率いるナチス党が、軍備制限への不満から同じく国際連盟を脱退し、独自の軍拡路線を進めていた。
このような状況下、両国にとって共通の脅威となったのが、ソビエト連邦およびコミンテルン(国際共産主義運動)の動きであった。1935年に開催されたコミンテルン第7回大会において、ファシズムに対抗する「人民戦線(反ファシズム統一戦線)」の方針が採択され、日本とドイツが明確な「侵略国」として指名された。これに対抗するため、陸軍主導のもとでドイツとの提携を模索する動きが日本国内で急速に活発化した。
協定の内容と「秘密軍事協定」の存在
1936年11月25日、ベルリンにおいて駐独特命全権大使の武者小路公共とドイツ外相リッベントロップの間で防共協定が調印された。表向きに公表された条文は、コミンテルンの活動に関する情報の交換、防衛措置の協議、および共同委員会の設置など、共産主義の浸透を阻止するための「防共」協力という穏健な内容にとどまっていた。
しかし、この協定には公表されない秘密付属協定(秘密軍事協定)が存在した。その実態は、締結国の一方がソ連から不発の挑発または攻撃を受けた場合、他方はソ連を有利にするいかなる措置もとらないこと(中立義務)、およびソ連との間で協定の精神に反する政治条約を締結しないこと(事実上の事前合意義務)を定めたものであった。これにより、日独防共協定は単なる思想運動への対抗措置ではなく、実質的にソ連を仮想敵国とした軍事同盟としての性格を帯びることとなった。
歴史的意義:枢軸陣営の形成と「複雑怪奇」な破綻
本協定の締結は、世界を大きく二つの陣営へと色分けする契機となった。翌1937年には、エチオピア侵略などで同様に国際的孤立を深めていたイタリアがこの協定に加入し、日独伊防共協定へと拡大した。これにより、第二次世界大戦におけるファシズム陣営(枢軸国)の原型が完成することになる。
しかし、この日独の連携は盤石なものではなかった。1939年8月、ドイツは日本への事前通告なしにソ連との間で独ソ不可侵条約を締結し、防共協定を事実上形骸化させた。これに衝撃を受けた日本の平沼騏一郎内閣は「欧州の天地は複雑怪奇」との言葉を残して総辞職に追い込まれた。その後、日独関係は一時的に冷却化するものの、1940年の日独伊三国同盟の締結によって再び結びつきを強め、日本は太平洋戦争への道を突き進むこととなった。