日本労働組合評議会 (にほんろうどうくみあいひょうぎかい)
【概説】
1925年に日本労働総同盟の分裂によって結成された、大正期から昭和初期にかけての労働組合の全国中央組織(ナショナルセンター)。非合法の日本共産党の影響を強く受け、妥協を排した戦闘的な階級闘争を展開した左派(共産主義系)組織である。
総同盟の分裂と評議会の結成背景
第一次世界大戦後の日本では、大正デモクラシーの進展やロシア革命の影響、マルクス主義思想の流入などを背景に、労働運動が急速に活発化していた。当時、日本の労働運動を主導していたのは、鈴木文治らが率いる日本労働総同盟(総同盟)であったが、その内部では路線対立が深刻化していた。資本家との妥協や議会政治を通じた現実的な労働条件改善を目指す右派・中間派に対し、労働運動を社会主義革命の手段と位置づける急進的な左派が台頭したためである。
この左右の対立は、1924年の総同盟大会での激突を経て決定的となり、翌1925年5月、総同盟から除名および脱退した左派系の労働組合が集結し、新たに日本労働組合評議会(評議会)を結成した。評議会は結成当初から、地下組織であった日本共産党の影響を強く受け、階級闘争の徹底を掲げて総同盟の穏健路線を激しく批判した。これにより、日本の労働運動は明確に左右に分裂することとなった。
戦闘的ストライキの展開と「全協」への道
評議会は結成後、各地で資本家側と妥協しない激しい労働争議を指導した。代表的なものとして、1926年の共同印刷争議や、1927年から1928年にかけての野田醤油争議(現在のキッコーマンで起きた、218日間に及ぶ戦前最長のストライキ)などが挙げられる。評議会は単に賃金上げや労働時間の短縮を求めるだけでなく、資本主義体制そのものを批判し、政治的なスローガンを掲げて闘争を展開した点に特徴がある。
また、1928年2月に実施された第1回普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)においては、合法政党である労働農民党を全面的に支援し、無産政党の議席獲得に向けて活発な政治活動を展開した。こうした大衆運動と政治運動を結びつける動きは、政府にとって大きな脅威となっていった。
政府による弾圧と解散
普通選挙直後の1928年(昭和3年)3月15日、田中義一内閣は全国の共産党員およびその同調者の一斉検挙に踏み切った(三・一五事件)。この大弾圧のなかで、評議会は共産党の主要な大衆支持基盤とみなされ、同年4月10日、治安警察法第8条に基づき、労働農民党や全日本無産青年同盟とともに治安を阻害する結社として結社禁止(解散処分)を命じられた。
評議会はわずか3年足らずで壊滅したが、その解散後、活動家たちは地下へ潜り、1928年末に結成された非合法の日本労働組合全国協議会(全協)へと運動を引き継ぎ、より先鋭化した反帝国主義・反戦運動を展開していくこととなる。