日韓議定書 (にっかんぎていしょ)
【概説】
日露戦争勃発直後の1904年2月、日本が大韓帝国(韓国)に圧力をかけて締結させた軍事・政治上の協定。日本軍による韓国領土の軍事的な自由使用などを認めさせ、のちの韓国併合へとつながる植民地化プロセスの起点となった。
日露戦争の開戦と韓国の「局外中立」の打破
19世紀末から20世紀初頭にかけて、朝鮮半島をめぐる日本とロシアの対立は極限に達していた。大韓帝国(韓国)は、日露両国の衝突に巻き込まれることを避けるため、日露開戦直前の1904年1月に局外中立を宣言した。しかし、同年2月8日に日露戦争が勃発すると、日本軍はただちに韓国の首都である漢城(ソウル)に侵入し、宮廷を包囲して政治的圧力を加えた。これにより韓国の中立宣言は事実上踏みにじられ、同年2月23日に「日韓議定書」の調印が強要されることとなった。
軍事的な土地接収と主権の侵害
日韓議定書の最大の特徴は、日本が日露戦争を有利に進めるために、韓国の領土や資源を合法的かつ強制的に収用する権利を得た点にある。特に第4条では、第三国の侵害や内乱によって韓国の皇室や領土に危険がある場合、日本軍が「軍略上必要な場所を臨機に収用できる」と定めていた。この規定に基づき、日本軍は韓国内の各地の土地を軍用地(要地)として接収し、軍用鉄道(京義線など)の敷設や兵站基地の建設を強行した。また、第3条では日本による「施政改善の忠告」を容れることを義務付け、韓国の内政に対する組織的な干渉への足がかりをつくった。
保護国化・植民地化への起点としての歴史的意義
日韓議定書の締結は、大韓帝国の主権を著しく侵害し、実質的な軍事占領下に置くものであった。日本はこの議定書を手始めとして、同年8月には第1次日韓協約を締結して財務・外交顧問を送り込み(顧問政治)、翌1905年には第2次日韓協約によって外交権を剥奪して統監府を設置した。このように、日韓議定書は東アジアにおける日本の帝国主義的膨張において、韓国の主権を段階的に剥奪していく保護国化・植民地化プロセスの最初の法的枠組みとなった点で、極めて重要な意義を持っている。