桂・タフト協定 (かつら・たふときょうてい)
【概説】
日露戦争末期の1905年7月、日本の首相・桂太郎とアメリカの陸軍長官タフトとの間で交わされた秘密覚書。日本の大韓帝国(韓国)における指導権と、アメリカのフィリピン統治を互いに承認し合った、帝国主義的な相互妥協の取り決めである。
協定締結の背景と日米の思惑
1904年に勃発した日露戦争は、1905年5月の日本海海戦における日本海軍の勝利をもって、事実上の決着へと向かいつつあった。日米両国は、東アジアにおける新たな国際秩序の構築を模索していた。アメリカは1898年の米西戦争を通じてフィリピンを領有したばかりであり、その安定的な統治基盤の確保を望んでいた。一方、日本は満洲および朝鮮半島への影響力を決定的なものにしたいという意図を持っていた。
このような状況下、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの特使として訪日した陸軍長官ウィリアム・タフトと、日本の内閣総理大臣兼外務大臣であった桂太郎が会談を重ね、同年7月27日に秘密覚書(協定)を取り交わした。この協定は公式な条約ではなく、大統領の承認を得た内密の政治合意であったため、その存在が公にされたのは第1次世界大戦後の1924年のことである。
協定の内容と「交換条件」としての合意
桂・タフト協定の根幹は、相互の勢力圏を認め合う「ギブ・アンド・テイク」の妥協にあった。具体的には、日本はアメリカのフィリピンにおける支配を全面的に承認し、これに対して侵略の意図を持たないことを誓約した。その引き換えとして、アメリカは日本が韓国に対して「指導、保護、および統制の措置」をとることが、東アジアの平和維持に必要不可欠であると認めた。
また、この協定においては、日米英の3カ国による「事実上の同盟関係」の構築も議論された。アメリカは伝統的な「孤立主義」から公式な軍事同盟の締結は避けたものの、極東の現状維持のために日英両国と歩調を合わせる姿勢を示したのである。
歴史的意義:日本の韓国保護国化への道と「列強の承認」
桂・タフト協定は、日本が韓国を実質的な植民地とする過程において、極めて重要な役割を果たした。当時の日本は、武力で韓国を支配するだけでなく、国際社会(列強)からの異議申し立てを防ぐための「外交的包囲網」の形成を急いでいた。
この協定が結ばれた直後の1905年8月、日本はイギリスとの間で第2次日英同盟を締結し、イギリスからも韓国に対する指導・監理権を承認させた。さらに同年9月、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約において、敗戦国となったロシアからも大韓帝国における日本の優越権を認めさせることに成功した。このように、アメリカ(桂・タフト協定)、イギリス(第2次日英同盟)、ロシア(ポーツマス条約)の3カ国から相次いで承認を得たことで、日本は外交的障害を完全に排除した。そして同年11月、第2次日韓協約(乙巳保護条約)を強硬に締結し、大韓帝国の外交権を奪って保護国化を達成することとなったのである。