北緯50度以南の樺太(南樺太)
【概説】
1905(明治38)年のポーツマス条約によって、日露戦争に勝利した日本がロシアから新たに割譲された領土。幕末以来の国境交渉を経て一度は全島がロシア領となっていたが、この条約により北緯50度を境界として南半分が日本領となった。第二次世界大戦敗戦の1945年まで、約40年間にわたり日本の統治下に置かれた。
幕末・明治初期における日露の国境画定
樺太(サハリン)は、江戸時代から松前藩や江戸幕府の探検家によって調査が進められていたが、同時に北上するロシア帝国との間で国境の画定が懸案となっていた。1855年の日露和親条約では、両国間の国境を確定できず、樺太はこれまでの慣例通り「日露雑居の地」とされた。しかし、その後も両国人の間で紛争が絶えなかったため、明治政府は北方国境の安定を図るべく交渉を行った。
その結果、1875(明治8)年に結ばれた千島樺太交換条約において、日本は千島列島全島を領有する代わりに、樺太全島の領有権をロシアに譲り渡した。これにより、一度は樺太全島が完全にロシア領として確定することとなった。
ポーツマス条約による南樺太の割譲
1904年に勃発した日露戦争において、日本軍は優勢に戦いを進め、戦争末期の1905年7月には樺太全島を軍事占領した。同年9月、アメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトの斡旋により結ばれた講和条約であるポーツマス条約の交渉において、日本は領土割譲と賠償金を強く要求した。
ロシア側は賠償金の支払いを断固として拒否したが、領土の割譲については妥協点を探った。交渉の結果、日本は賠償金を放棄する代わりに、領土的代償として北緯50度以南の樺太(南樺太)およびその付属島嶼の割譲を受けることで合意した。北緯50度が境界線とされたのは、当時の天文学的測量の基準として明確であったことや、軍事的な妥協の産物であったためである。これにより、南樺太は正式に日本領に編入された。
日本統治下の南樺太と「内地編入」
領有権を獲得した日本は、1907(明治40)年に樺太庁を設置し、本格的な統治と開拓に乗り出した。豊富な森林資源を活かしたパルプ・製紙業(王子製紙や富士製紙などが進出)をはじめ、沿岸部での漁業(ニシンやカニなど)、そして豊かな埋蔵量を誇る石炭鉱業が南樺太の三大産業として急速に発展した。
産業の発展に伴い、日本本土から多くの移民が渡り、インフラ整備や鉄道の敷設も進んだ。昭和時代に入ると、南樺太は日本の法制度上も特異な変遷をたどる。当初は台湾や朝鮮と同じく「外地(植民地)」として扱われていたが、1943(昭和18)年には行政上内地編入が行われ、法的には日本本土の一部として扱われるようになった。敗戦直前には、南樺太には約40万人の日本人が生活していたとされる。
第二次世界大戦と南樺太の喪失
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を破棄して対日参戦し、8月11日には南樺太への侵攻を開始した。日本のポツダム宣言受諾(8月15日)後もソ連軍の進撃は止まらず、民間人を巻き込んだ凄惨な地上戦(真岡郵便電信局事件など)が繰り広げられた。最終的に8月下旬までにソ連軍は南樺太全域を占領した。
戦後の1951年に締結されたサンフランシスコ平和条約において、日本は南樺太および千島列島に対するすべての権利、権原および請求権を放棄した。ただし、同条約では放棄した領土の帰属先が明記されておらず、ソ連(現ロシア)も同条約に署名していないため、日本政府は現在も「南樺太の最終的な帰属は国際法上未定である」との立場をとっている。しかし事実上は、第二次世界大戦終結以降、一貫してロシアの実効支配下に置かれている。