第1次西園寺公望内閣

日露戦争後の1906年に発足し、鉄道国有法を制定して国内交通の統制を図った立憲政友会総裁の首相が率いた内閣は何か?
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重要度
★★

【参考リンク】
西園寺公望(Wikipedia)

第1次西園寺公望内閣 (だいいちじさいおんじきんもちないかく)

1906〜1908年

【概説】
日露戦争直後の1906年1月に、立憲政友会総裁の西園寺公望が組織した内閣。軍閥・藩閥の代表である桂太郎と政権を交互に担当した「桂園時代」の最初の内閣である。日露戦後の国家体制を整備する「戦後経営」にあたり、鉄道国有法の制定や、日本社会党の結成を当初黙認するなどの柔軟な内政を展開した。

桂園時代の到来と穏健な内政

日露戦争の講和条約であるポーツマス条約の内容に不満を抱いた民衆は、1905年9月に日比谷焼打事件を引き起こした。これにより、戦争を指導した第1次桂太郎内閣は総辞職を余儀なくされる。その後継として政権を担当したのが、元老・伊藤博文から立憲政友会(政友会)の総裁の座を受け継いでいた西園寺公望であった。

公家出身でフランス留学経験を持つ西園寺は、自由主義的な政治姿勢を持っていた。この政権交代により、藩閥・官僚勢力を率いる桂太郎と、衆議院の第一党である政友会を率いる西園寺が、交互に首相となって政権を担当する「桂園時代(けいえんじだい)」が幕を開けた。両者は対立しつつも、妥協を図りながら政局を安定させ、大正政変に至るまでの約8年間にわたり政権を維持することとなる。

日露「戦後経営」と鉄道国有化の断行

第1次西園寺内閣の最大の課題は、日露戦争後の国家財政の立て直しと、東アジアにおける利権の確保、すなわち「戦後経営」であった。政府は、南満洲鉄道株式会社(満鉄)の設立や、関東都督府・韓国統監府の設置を進め、大陸進出の基盤を固めた。

国内においては、1906年3月に鉄道国有法を制定した。これは、軍事上の要請(兵員や物資の迅速な輸送)と、経済発展に伴う国内流通網の統一という双方の目的から、主要な私鉄17社を買収して国有化するものであった。この政策によって全国的な鉄道ネットワークが国家の統制下に置かれ、日本の産業革命をさらに推進する基盤が整備された。

社会主義運動への融和と内閣の退陣

西園寺内閣は、前代の桂内閣が社会主義運動を厳しく取り締まったのに対し、融和的な態度を取った。1906年、日本初の合法的な社会主義政党である日本社会党が結成された際、西園寺は「過激な行動に走らない限り」としてこれを黙認(許可)した。しかし、党内で幸徳秋水らが唱える「直接行動論(議会政策を否定し、ゼネストなどによる革命を目指す方針)」が主流となると、内閣も態度を一変させ、翌1907年に同党を結社禁止処分とした。

さらに、1907年の足尾銅山暴動事件など労働運動の激化を受け、山県有朋ら山県系藩閥・軍部からの「社会主義の取り締まりが甘い」という批判が強まった。また、日露戦争後の軍備拡張に伴う財政難と、それに伴う増税に対する世論の不満も重なり、内閣は行き詰まりを見せる。1908年、西園寺内閣は総辞職し、再び桂太郎が政権を組織(第2次桂内閣)することとなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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