与謝野晶子
【概説】
明治時代から昭和時代にかけて活躍した歌人、作家、女性思想家。与謝野鉄幹の妻であり、歌集『みだれ髪』などで封建的な道徳観に縛られていた女性の官能や自我の解放を情熱的に歌い上げ、明星派の看板歌人となった。
浪漫主義の金字塔『みだれ髪』
与謝野晶子(本名:鳳志やう)は、1878年(明治11年)に大阪・堺の老舗和菓子屋に生まれた。幼少期から古典文学に親しんでいた彼女は、やがて短歌の創作を始め、与謝野鉄幹が主宰する新詩社の機関誌『明星』に作品を投稿するようになる。そこで鉄幹と出会った晶子は彼と恋に落ち、1901年(明治34年)に上京して鉄幹と結婚した。
同年、晶子は処女歌集である『みだれ髪』を刊行した。この歌集は、女性の豊かな黒髪を自己の象徴とし、抑圧されていた女性の官能や恋愛感情、自我の解放を大胆かつ情熱的に歌い上げたものであった。伝統的な和歌の制約や封建的な道徳観を打ち破る若々しい詠風は、当時の青年層から熱狂的な支持を集め、明治30年代の浪漫主義文学の頂点を示す記念碑的作品となった。同時に、この成功によって晶子は明星派を代表する看板歌人としての地位を確立したのである。
日露戦争と「君死にたまふこと勿れ」
晶子の活動は単なる文学の枠に留まらず、社会的な事象に対しても鋭い感性で発言を続けた。その代表が、1904年(明治37年)の日露戦争の最中に『明星』に発表された詩「君死にたまふこと勿れ」である。
この詩は、最激戦地であった旅順攻囲戦に従軍していた弟を案じて作られたものであった。「すめらみことは戦ひに おほみづからは出でまさね(天皇は自ら戦地に赴くわけではない)」という一節が含まれていたことから、当時の国家主義的な風潮の中で大きな波紋を呼んだ。歌人の大町桂月はこれを「危険思想」として激しく非難したが、晶子は「まことの心を歌うのが詩である」と毅然と反論した。国家の論理よりも個人の生命と家族への愛を優先したこの作品は、日本近代文学における反戦詩の代表作として今日でも高く評価されている。
女性解放運動と母性保護論争
大正時代に入ると、晶子は女性の自立と思想的解放を求める運動にも積極的に関与するようになる。1911年(明治44年)に平塚らいてうらが創刊した日本初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』には、「山の動く日きたる」という一節で有名な巻頭詩「そぞろごと」を寄稿し、新しい時代の女性たちの連帯を鼓舞した。
また、1918年(大正7年)からはじまった母性保護論争では、平塚らいてう、山田わか、山川菊栄らと激しい論戦を展開した。国家による母性の保護(公的援助)を求めた平塚らに対し、晶子は徹底した個人主義の立場から「女性の経済的自立が先決である」と主張し、安易な国家への依存を拒否した。これは、多数の子供を育てながら猛烈な執筆活動で一家の家計を支えていた晶子自身の強烈な自立心に基づくものであり、大正期の婦人解放運動における重要な思想的対立として歴史に名を残している。
古典研究と自由主義教育への貢献
晩年の晶子は、多忙な執筆・評論活動の傍ら、日本古典文学の研究と現代語訳にも多大な情熱を注いだ。特に『源氏物語』の現代語訳(『新訳源氏物語』など)は、古典文学の魅力を広く一般大衆に普及させる画期的な業績であった。
さらに、1921年(大正10年)には夫の鉄幹や建築家の西村伊作らとともに、自由で創造的な教育を目指す文化学院の創設に参画した。晶子はここで教壇に立ち、男女共学の環境下で芸術的感性を重んじる自由主義教育を実践し、後進の育成にも尽力した。彼女の生涯は、単なる優れた歌人にとどまらず、因習にとらわれない自立した近代女性のあり方を自らの人生で体現したものであり、近代日本の文学と思想に与えた影響は計り知れない。