新劇
【概説】
坪内逍遥や島村抱月らが中心となり、西洋の近代戯曲を翻訳・上演することで、芸術性の高い写実的な近代劇の確立を目指した演劇運動。
明治末期に旧派(歌舞伎)や新派(壮士芝居の流れを汲む通俗劇)に対する革新として誕生し、日本の近代演劇の基礎を築いた。
新劇誕生の歴史的背景
明治時代、日本の演劇界は主に伝統的な歌舞伎を中心とする旧派と、自由民権運動の壮士芝居を源流とし、のちに風俗劇や通俗的な悲恋物へと傾斜していった新派によって占められていた。しかし、日清・日露戦争を経て日本の近代化が進み、文学界で坪内逍遥の『小説神髄』による写実主義や、島崎藤村・田山花袋らによる自然主義文学が隆盛すると、演劇界でも旧態依然とした興行偏重の体制や、型にはまった演技に対する不満が高まっていった。
こうした中で、西洋の近代的な自我や社会問題を描いた演劇(近代戯曲)を日本に紹介し、興行的な娯楽性よりも芸術性や思想性を重視する新しい演劇を目指す機運が生まれた。これが「新劇」と呼ばれる演劇運動の始まりである。
文芸協会と自由劇場の結成
新劇運動の先駆けとなったのは、主に二つの劇団である。一つは1906年(明治39年)に坪内逍遥と島村抱月らによって結成された文芸協会である。文芸協会は俳優養成所を併設し、近代的な教養を持った俳優の育成に努めた。特にイプセンの『人形の家』の上演では、主演の松井須磨子が近代的な自我に目覚める新しい女性像を見事に演じ、社会的な反響を呼んだ。のちに島村と松井は恋愛問題により文芸協会を離脱して芸術座を結成し、トルストイ原作の『復活』を上演して劇中歌「カチューシャの唄」を大流行させた。
もう一つの重要な劇団が、1909年(明治42年)に小山内薫と歌舞伎俳優の二代目市川左團次が結成した自由劇場である。自由劇場はプロの俳優の興行ではなく、知識人や学生を対象とした会員制の実験的な公演を行い、イプセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』やチェーホフ、ゴーリキーなど西洋の近代戯曲を次々と翻訳上演し、純粋な芸術としての演劇を深く追求した。
大正期の発展と築地小劇場
明治末期に蒔かれた新劇の種は、大正時代に入るとさらなる発展を遂げた。1924年(大正13年)、関東大震災の翌年に小山内薫と土方与志によって日本初の新劇専用劇場である築地小劇場が建設された。これは日本の新劇運動において画期的な出来事であり、ここを拠点として多くの優れた演出家や俳優が育ち、表現主義や構成主義など当時のヨーロッパの最新の演劇理論が実践された。
しかし、昭和初期に入ると新劇運動はマルクス主義の影響を強く受け、社会変革を目指すプロレタリア演劇運動へと傾斜していく。これにより新劇は国家からの厳しい弾圧を受けることになるが、その理念と演劇的手法は戦後の現代演劇にまで脈々と受け継がれていくこととなった。
日本近代史における新劇の意義
新劇運動は、単なる舞台芸術の革新にとどまらない重要な歴史的意義を持っている。西洋の近代思想、特に個人主義や女性解放、階級闘争といった同時代の社会問題を、翻訳劇という生きたメディアを通して日本の知識人や大衆に直接的に提示したのである。
また、歌舞伎の世襲制や徒弟制度に基づく古い演劇界のあり方を打ち破り、近代的な演出家を中心とする集団制作のシステムや、男女が対等に同じ舞台に立つという近代的な劇団のあり方を確立した点においても、日本の文化史における画期的な転換点であったと評価できる。