岐阜事件 (ぎふじけん)
【概説】
1882(明治15)年4月6日、自由党総理の板垣退助が岐阜での遊説中に暴漢に襲撃され負傷した事件。自由民権運動に対する保守派の反発から生じたテロ行為であり、襲撃の際に板垣が発したとされる「板垣死すとも自由は死せず」という言葉とともに、運動の象徴的な事件として語り継がれている。
事件の背景と突発
1881(明治14)年、明治政府は10年後の国会開設を約束する(国会開設の詔)と同時に、急進的な民権派である大隈重信を政府から追放した(明治十四年の政変)。これを受けて、板垣退助らは日本初の本格的な近代政党である自由党を結成し、主権在民や一院制国会の開設を求めて全国的な遊説活動を展開していた。
1882年4月6日、中日本への遊説へ向かった板垣は、岐阜の神道中教院での懇親会を終えて退場する際、背後から「国賊」と叫ぶ男に短刀で襲撃された。犯人は愛知県の小学校教員であった相原尚褧(あいはらなおひろ)という保守派の青年であった。板垣は胸など数カ所を刺されて負傷したものの、幸いにも命に別条はなかった。この緊迫した状況の中で、板垣が叫んだとされる「板垣死すとも自由は死せず」という言葉は、同行していた内藤魯一の作ともいわれるが、新聞報道などを通じて全国に伝わり、民権派の連帯と熱狂を呼び起こすこととなった。
事件の影響と自由民権運動の変容
岐阜事件は、自由民権運動に対する世論の同情と支持を一気に高める結果となった。しかし同時に、この事件を契機として政府は民権派への警戒をさらに強め、集会条例の改正(1882年6月)などによって、政党活動や言論に対する弾圧をいっそう本格化させていく。
さらに、事件後の板垣退助の動向は、自由党内に大きな亀裂を生むこととなった。負傷の療養を終えた板垣は、同年の秋から後藤象二郎とともにヨーロッパへ外遊(洋行)するが、この旅費の出所が、民権運動の分断を狙う政府(三井物産経由の資金提供)であったことが発覚する。これが、共同で反政府戦線を敷いていた大隈重信率いる立憲改進党などから激しく批判され、自由党内部でも不信感が高まった。指導者の不在と政府の懐柔策により党の統制は失われ、地方の過激化した党員たちが各地で「激化事件」(福島事件や加波山事件など)を引き起こす引き金の一つとなった。