大山巌 (おおやまいわお)
1842〜1916
【概説】
薩摩藩出身の軍人・政治家。初代陸軍大臣を務め、日清・日露戦争において陸軍の最高指揮官として勝利に貢献した、明治期日本陸軍の重鎮。
薩摩閥の台頭と初代陸軍大臣への就任
大山巌は、天保13(1842)年に薩摩国鹿児島城下で薩摩藩士の長男として生まれた。維新の元勲である西郷隆盛や西郷従道とは従兄弟の関係にあたる。幕末期には尊王攘夷派として活動し、薩英戦争や戊辰戦争に従軍した。戊辰戦争においては新式の十二斤加農砲(通称「大山砲」)の開発や砲兵隊の指揮で功績を挙げ、頭角を現した。明治維新後はヨーロッパへ留学し、フランスやスイスで西洋の先進的な軍事技術や制度を学んだ。
帰国後は陸軍の近代化に尽力し、明治18(1885)年に内閣制度が創設されると、第1次伊藤博文内閣において初代陸軍大臣に就任した。以後、数々の内閣で陸軍大臣を歴任し、長州閥の山県有朋と並んで、近代陸軍における「薩摩閥」の首領としての地位を確立していった。
日清・日露戦争における統率力と歴史的意義
大山は、国家の命運をかけた二大対外戦争において陸軍の最高指揮官を務めた。日清戦争(1894〜95年)では第2軍司令官として出征し、清国屈指の要塞であった旅順をわずか一日で攻略するなどの武功を挙げた。さらに、ロシア帝国との衝突となった日露戦争(1904〜05年)においては、満州の全部隊を統括する満州軍総司令官に就任した。
日露戦争において大山は、総参謀長である児玉源太郎らの作戦立案を全面的に信頼し、実務を任せる姿勢を貫いた。この寛容で度量の広い人格が、個性的な将領たちを統率する上で絶大な効果を発揮し、陸軍の一体感を生み出したとされる。奉天会戦をはじめとする困難な戦局を乗り越えて勝利を収めた功績により、戦後は元老の一人に列せられ、陸軍のみならず国家の意思決定に関与し続けた。