教育令

1879年、画一的だった「学制」を廃止し、アメリカをモデルとした自由な教育制度を定めた法令は何か?
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重要度
★★

【参考リンク】
教育令(Wikipedia)

教育令

1879年

【概説】
1879(明治12)年に明治政府が制定した、近代日本の教育制度における基本法令。強権的で画一的だった「学制」を廃止し、アメリカを模範とした自由主義・地方分権的な教育改革を目指した。しかし、結果として就学率の低下や教育の放任を招いたため、翌年には国家統制を強める方向へと急激に改正された過渡期的な法令である。

「学制」の限界と教育令の制定背景

明治政府は1872(明治5)年、フランス的な中央集権的制度を模範とした学制を公布し、国民皆学を目指した。しかし、学制に基づく小学校の建設費用や教員給与、授業料などの負担はすべて地域住民に重くのしかかった。このため、地方では生活苦から小学校の焼き打ちを伴う一揆が多発し、就学率も政府の期待通りには伸び悩んでいた。

こうした状況を打開するため、文部大輔(実質的な文部省トップ)であった田中不二麿らは、アメリカの地方分権的な教育制度を視察・研究し、画一的な教育統制の緩和を試みた。民衆の経済的負担を軽減し、各地方の実情に即した柔軟な学校運営を認めることで、就学の定着を図ろうとしたことが、教育令制定の直接的な背景である。

自由主義的改革の内容とその混乱

1879年に制定された教育令(「自由教育令」とも呼ばれる)は、従来の「学制」を完全に廃止し、大幅な分権化と自由主義化を打ち出した。学区制を廃止して町村を学校設置の基礎単位とし、公立学校の管理を行う「学務委員」を住民の選挙によって選出することとした。さらに、従来の厳しい就学義務を大幅に緩め、「8年のうち最低4年、年間4ヶ月以上」の就学とし、私塾や家庭教育による代替も認めた。

しかし、この急進的な自由化は各地に「教育の放任」を招くことになった。財政難に直面していた多くの町村が学校を閉鎖・統合したほか、就学義務の緩和を都合よく解釈した親たちが子どもを学校に通わせなくなり、就学率はむしろ低下した。こうした混乱は、政府内外の保守派から強い批判を浴びる要因となった。

国家主義的統制への転換と「改正教育令」

教育令による教育現場の混乱を受け、天皇の侍講であった元田永孚ら宮中の保守派や政府高官は、自由主義教育が道徳の退廃を招いていると批判し、国家による思想・教育統制の強化を主張した。これを受け、政府は制定からわずか1年後の1880(明治13)年、教育令の大幅な改正(改正教育令、または第1次改正教育令)に踏み切った。

この改正により、住民選挙による学務委員は廃止されて官選(知事による任命)となり、文部省や府県知事による地方教育への監督権が大幅に強化された。さらに、小学校の教科において「修身」が筆頭に置かれ、忠君愛国を核とする徳育が最重視されるようになった。教育令はその後、1885年の第2次改正を経て、1886年に初代文部大臣の森有礼によって「学校令」が制定されたことで廃止された。教育令の挫折と改正の歴史は、日本の教育が自由主義から国家主義へと大きく舵を切る分岐点となった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

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