鮭(絵画)
【概説】
日本の近代洋画の開拓者である高橋由一の代表作。吊るされた新巻鮭の切り身の質感を、西洋由来の油絵による写実的な技法で見事に表現した近代日本美術の傑作であり、国の重要文化財に指定されている。
日本近代洋画の黎明と高橋由一
明治維新後、西洋の近代的な技術や文化が急激に流入する中、美術の分野でも西洋画(油彩画)の技法が本格的に導入された。その先駆者である高橋由一は、イギリス人画家チャールズ・ワーグマンに師事し、草創期の困難な環境下で油彩技法を習得した人物である。由一は西洋の油彩画が持つ圧倒的な写実力に魅了され、それを日本社会に普及・定着させることを生涯の使命とした。本作『鮭』は、そうした彼の写実への執念と技術的到達点を示す記念碑的な作品である。
日常の題材と驚異的な写実表現
『鮭』は、縄で吊るされた一本の塩鮭(新巻鮭)の半身が切り取られた状態を描いた静物画である。由一は、西洋の静物画でよく見られる狩猟の獲物や豪勢な食器ではなく、当時の日本の庶民にとって極めて身近な食材である鮭を画題に選んだ。縦長の画面いっぱいに描かれた鮭は、乾燥して反り返った皮の質感、表面に浮き出た塩の結晶、生々しい赤身と脂のコントラストが見事に捉えられている。この極めて精緻で迫真性のある写実表現は、当時の日本人に油彩画の表現力の高さを強烈に印象づけた。
「美術」の啓蒙と実用性の追求
由一にとって油彩画は、単なる芸術的鑑賞の対象にとどまらず、事物を正確に記録し、人々に知識を伝えるための「実用的な技術」でもあった。彼は、本物と見紛うほどの写実性(真迫)こそが、西洋文明の合理性や科学的精神の表れであると考えたのである。『鮭』は、そうした由一の美術観を体現したものであり、誰もが知るありふれた題材を極めてリアルに描くことで、新しい表現手法である油絵の威力を大衆に分かりやすく啓蒙する狙いがあったと考えられる。まさに明治初期における美術の近代化の過程を象徴する作品である。
作品の伝来と重要文化財指定
高橋由一は『鮭』の画題を好んだことや、各方面からの需要に応える形で、生涯に複数の同名作品を制作したことが知られている。現在、数点の『鮭』の存在が確認されているが、中でも最も完成度が高く著名なのが、東京藝術大学大学美術館に所蔵されている作品(1877年頃制作)である。この作品は、日本の近代美術の歩みを語る上で欠かせない極めて高い歴史的価値が評価され、日本の近代洋画としては早期に国の重要文化財に指定されている。