徳富蘇峰

雑誌『国民之友』を創刊し、上流階級だけの欧化を批判して「平民的欧化主義」を主張した言論人は誰か?
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★★★

徳富蘇峰 (とくとみそほう)

1863〜1957

【概説】
明治から昭和にかけて活躍し、民友社を設立して雑誌『国民之友』を発行したジャーナリスト・思想家。初期は「平民主義」を提唱して若者の絶大な支持を集めたが、日清戦争後に国家主義へと転向し、日本の言論界に多大な影響を与え続けた。

熊本バンドと平民主義の形成

徳富蘇峰(本名:猪一郎)は、1863(文久3)年に肥後国(現在の熊本県)の豪農の家に生まれた。横井小楠の思想を受け継ぐ実学党の環境で育ち、熊本洋学校で学んだ後、同志社英学校に進学した。そこで新島襄の教えを受け、キリスト教に入信した「熊本バンド」の一員として西洋思想に深く触れることとなる。

学校を中退して帰郷した後、私塾を開いて青年の教育にあたる傍ら、1886(明治19)年に『将来之日本』を刊行した。この著書で蘇峰は、軍備拡張を批判し、生産機関の発展と平和主義に基づく国家建設を主張して注目を集めた。翌年、上京して民友社を設立し、総合雑誌『国民之友』を創刊した。ここで彼が提唱したのが「平民主義(平民的欧化主義)」である。これは、薩長藩閥などの特権階級による上からの表面的な欧化(鹿鳴館時代など)を批判し、平民(一般国民)の自由と平等を基盤とした真の近代化を目指すものであった。

政教社の国粋保存主義との対峙

民友社の『国民之友』が提唱する平民主義は、自由民権運動が衰退しつつあった当時の青年層に新たな思想的指針を与え、熱狂的に支持された。同時期に言論界で民友社と双璧をなしたのが、三宅雪嶺や志賀重昂らが結成した政教社である。

政教社は雑誌『日本人』を発行し、行き過ぎた欧化政策を批判して日本の伝統や国民的特性を重んじる「国粋保存主義(国粋主義)」を主張した。両者は明治20年代の言論界においてライバル関係にあり、日本の近代化のあり方をめぐって活発な論陣を張った。しかし、両者とも薩長藩閥政府の専制や表面的な欧化政策には批判的であり、日本の独立と発展を模索するという根本的な課題意識は共有していたといえる。

三国干渉の衝撃と国家主義への転向

言論界の寵児となった蘇峰であったが、日清戦争を契機にその思想は大きな転換点を迎える。1895(明治28)年、日清戦争後の講和条約によって日本は遼東半島を獲得したが、ロシア・フランス・ドイツによる三国干渉の圧力に屈して返還を余儀なくされた。

この国際社会の弱肉強食の現実を目の当たりにした蘇峰は、「正義は力なり」と痛感し、これまでの平民主義・平和主義から、軍備拡張と国力増強を重視する国家主義(帝国主義)へと劇的な転向を遂げた。自ら創刊した日刊紙『国民新聞』を政府の代弁機関へと変質させ、第2次松方正義内閣や桂太郎内閣に接近して政界の黒幕としても暗躍するようになった。この転向は多くの読者の失望を招き、弟の小説家・徳富蘆花との義絶の要因にもなった(のちに和解)。

大日本言論報国会と戦後の蘇峰

大正・昭和期に入っても蘇峰の筆鋒は衰えず、『近世日本国民史』の執筆をライフワークとしながら、国家主義的・皇室中心主義的な言論活動を続けた。昭和の太平洋戦争(大東亜戦争)下では、大日本言論報国会の会長を務め、言論界の統制と戦争遂行のプロパガンダを主導した。

敗戦後、A級戦犯容疑者に指名され(のちに高齢と病気のため不起訴処分)、公職追放を受けた。その後は隠遁生活を送りながらも執筆を続け、1957(昭和32)年に94歳でその生涯を閉じた。蘇峰の歩みは、明治から昭和に至る日本の近代化と帝国主義化の軌跡を、言論界という舞台において最も克明に体現したものであったと評価されている。

近代日本思想大系 8 徳富蘇峰集

民友社を主宰し言論界を牽引した蘇峰の思想的変遷を辿る貴重な全集。

徳富蘇峰: 日本の生める最大の新聞記者 (日本史リブレット人 083)

巨魁・徳富蘇峰の波乱に満ちた生涯を新聞記者の視点から描き出す評伝。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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