和衷協同の詔書(建艦詔書)

第4回帝国議会において、明治天皇が宮廷費の削減や官吏の俸給1割減を自ら申し出て、政府と議会に融和を促した詔書を何というか?
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重要度
★★

和衷協同の詔書(建艦詔書) (わちゅうきょうどうのしょうしょ)

1893年

【概説】
1893年(明治26年)2月、明治天皇が政府と帝国議会の対立を調停するために下した詔書。天皇自身が宮廷費を節約し、官吏の俸給の1割を軍艦建造費(建艦費)に充てることを示して、予算案をめぐる政府と民党の妥協を促した政治的融和策。

初期議会における「民力休養」と予算闘争の激化

大日本帝国憲法発布後に始まった初期の帝国議会では、薩長藩閥からなる政府(超然内閣)と、衆議院の多数を占める野党である民党(自由党や立憲改進党など)が激しく対立していた。民党は「民力休養・政費節減」を掲げ、地租軽減や政府予算の大幅削減を求めて政府の施策を阻み続けた。

1892年(明治25年)に発足した第二次伊藤博文内閣は、対外緊張の高まりを受けて軍備拡張、とりわけ海軍の軍艦建造費を含む予算案を提出した。しかし、翌1893年の第4回帝国議会において、民党側は「条約励行(現行条約を厳格に運用して外国人居留地外での行動を制限し、条約改正を迫る主張)」や経費節減を盾に、この建艦費を含む予算案の大幅削減を要求した。閣僚の辞職や議会の解散でも解決の糸口が見えない中、政府と議会の対立は極限に達し、国政は麻痺寸前の危機に陥った。

「聖断」による妥協の成立とその歴史的影響

この膠着状態を打破するため、伊藤博文首相は天皇の権威に頼る「聖断」を仰いだ。これに応えて1893年2月10日に下されたのが和衷協同の詔書(建艦詔書)である。この中で明治天皇は「国家の安寧のために政府と議会は協力(和衷協同)せよ」と命じた。

さらに天皇は、自らの宮廷費(内廷費)から毎年30万円を拠出し、同時に文武官吏に対しても俸給の1割を、それぞれ6年間にわたって軍艦建造費に寄付することを宣言した。天皇自らが身を削る姿勢を示したことで、民党、特に妥協へと傾きつつあった自由党は予算削減の主張を取り下げざるを得なくなり、予算案は成立に至った。

この詔書により、翌年に控えた日清戦争に向けた海軍の軍備拡張が急速に進むこととなった。また、一連の経緯は、政府と議会が対立した際の最終的な決定権が天皇の超越的な権威にあることを天下に示し、のちの「近代天皇制」の確立を方向付ける重要な契機となった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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